2017年1月23日 (月)

「アメリカファースト」「都民ファースト」「わたくしファースト」

http://www.newsweekjapan.jp/obata/2017/01/post-13.php「実は、ポピュリズムによる被害が大きくなる要因は、ポピュリストである政治家自身にあるのではない。権力にすり寄るブレーン、自称インテリたちの下心により、初めて実害が生じるのだ。ポピュリストも素手では世の中を悪くできない」

幡績慶応大学准教授のコラムhttp://www.newsweekjapan.jp/obata/2017/01/post-13.php を読みながら、膝を打つ。
コラムはこう始まっている。
以下、引用
***************************

<ドナルド・トランプや安倍晋三などのポピュリストが歴史に禍根を残すことになるとしたら、それは彼らだけのせいではない>

トランプについて、様々なことが語られるが、要は、テレビタレント出身のポピュリスト大統領であり、既存勢力でないアウトサイダーの政治家ということに尽きる。

だから、トランプの政策の狙いやヴィジョンについて議論しても無駄である。それにもかかわらず、百家争鳴、皆で議論してしまっては、まさにトランプの思う壺である。彼は話題になることが狙いだから、それは泡沫大統領候補だったときから何も変わらない。炎上ビジネスであるから、放っておくのがもっとも正しい対処法である。

 ただし、これは世界の潮流である。我が国の首相も、ヴィジョンや信念を持った政策はすくなくとも経済に関しては存在しない。しかし、それを「アベノミクス」というブランドとして確立し、これを使ったマーケティングに大成功したのである。だから、アベノミクスについて議論しても意味がない。

 都知事においても同じで、わたくしファーストであるから、劇場の主役に自分がなればよいので、盛り上がれば何でも良いのである。

都知事においても同じで、わたくしファーストであるから、劇場の主役に自分がなればよいので、盛り上がれば何でも良いのである。

以上引用終わり*****************
ポピュリズムの奥底にある「わたくしファースト」。
なるほど。

ポピリズムが作る権力に群がるのは選挙を控えた政治家も、である。
次期都議選では小池系の「都民ファーストの会」の公認・推薦を得ることができれば、「当確」とも言われる中で、どんな候補を揃えてくるのか。
弊害を生まないためには、まずはその候補者選びに注目したい。

百合子氏は維新のケースも参考に、相当に研究しているのではないかと思う。
地方自治は二元代表制だから、議院内閣制の国会とはガバナンスは違うのだが、
身内に有能な議員を入れると言うことは、議案提案等よい面もあるのだが、一方チェック機能を果たすと言う意味では自らが突っ込まれるということでもあり、それをどう見せて行くかと言うのもひとつの課題である。(通常身内を「イエスマン」で固めるのはそんな理由もあってである)
それと同時に、選ぶ候補者がスキャンダルを抱えていないかのスクリーニングはかなり重要になる。過去に学べば
☆公認から選挙までの間の時間が短ければ、調査に時間がかかるから、週刊誌等のスキャンダル等は回避できる。
☆新人候補については既存の政治文化にまみれていない分、過去を穿り返されるリスクは少ない
等々。ま、前半は鳥越選挙で覆されたけど。(前日に立候補表明でもスキャンダルが出ると言う先例ができた)
☆都議会議員、その他の地方議員の現職、元職については慎重な対処が必要
国会議員と違って、今まであまり注目をされてこなかった分は、政務活動費や政治資金収支報告書についての認識が甘めの傾向にある人々もいる。
そういう人に限って、機を見るに敏。コーティングも上手という傾向もあるから、
30分程度の内部の面接等には強い。
ところが、マスコミに注目され、ちょっと掘られたら途端に話題提供という可能性も・・というのも歴史?が示している。
電車の吊り広告に「公認候補40人、その呆れた実情」なんて見出しが躍らないようにしなければならない、というのが、たぶん選考委員会の最重点項目かもね。

政党内で公認作業が行われる場合は、ある程度応募して来た人の「人となり」はわかる。
が、「公募」となるとその辺が難しい。

だからこそ、有権者もその過程もしっかり見て行かなければならないのだと、
冒頭にあげた一文を繰り返し読みながら思うのである。

2017年1月11日 (水)

政治業界最も詳細な箱根駅伝解説①

今年も箱根駅伝が終わった。

毎年恒例の解説を書こうと思ったが、連日の政治活動で疲弊していて十分な時間が取れない。
・・ところで、夫が解説を書いていた。
確かに青学はチームとしての調子は悪かった。
が、逆に言えばドンピシャの区間もあった。
箱根や都議選のように試合日程が決まっていてもこうである。
試合がつかわからないで練習を続ける身としてはほんとうに難しいが、逆に言えば、その見極めも含めて衆議院の候補予定者の実力である。
ってことで、まずは第一弾として、夫の解説を載せておく。

**********

「井戸と智樹のタスキリレー」(←*夫の名前は井戸智樹笑)

個人的話題の最たるものは・・・12月初旬に大学を訪ねた際、相楽監督(部の後輩)に「井戸(浩貴)君と(太田)智樹君のタスキリレー頼むわ、だって俺”井戸智樹”だから:笑」と陳情しておいたのが・・・何とほんとに実現してしまったことだ。

(早稲田の7区→8区)

二人とも中学から強い選手だったので、同じ名前の僕は何年も前からその存在を知っており(太田君は全国の中学チャンピオン、井戸君も駒大・中谷君や青学大・秋山君らと兵庫のTOPを争ってきた選手)。

特に井戸君については色んな関係者から「息子?」「隠し子?」などなどと尋ねられてきた。
三年前の彼の初めての箱根の時には当時の野田総理(政経塾二年先輩) からわざわざ「あれお前の子ども?」と連絡もらったくらいである(笑)。

双方とも兵庫県知事の井戸敏三さんの遠縁らしい(うちの場合は兵庫県新宮町=現たつの市の実家がはす向かい)というのと、僕の先祖の墓が井戸君の実家から100m以内?にあったりもする関係で、彼が(阪大にも合格したのに・・・)後輩になってからは、メシに連れてったりしたこともある。

ともあれ、このマイナー苗字×名前の組み合わせの後輩どうしが、テレビの中でタスキリレーする確率は一体どれくらい「ありえない」ことなのだろうか?
・・・今年の運を新春3日目にしてかなり使ってしまったかも知れない。

さて、その箱根駅伝はご承知のように、青山学院の「圧勝」に終わった。

早稲田は結局2位も守れず・・・わずかな見せ場は5区・安井君が下りに入り33秒まで青学を猛追したこと、また青学7区・田村君のアクシデントに対し、井戸君(往路での負けを受けた”勝負手”で昨年区間賞の9区からこの区間へ)のもしやの逆転が期待されたシーンなど、数えられるくらいだった。

最大の敗因は単純にピーキングのずれだと思う。

秋にものすごく調子がよく、それが正月まで持たなかったケースは僕らの時代(と言って説得力がなければ瀬古選手の時代)にもあった。
10月末だかの高島平20キロでほとんどの選手が大幅自己新を出した!・・・のだが、本番で優勝した順天堂大学の選手の多くは一枚上手で(あくまで正月ピークを意識し)、ちんたらとはるか後方を走っていたものだ。

今回の青学は決してチームとしての調子はよくなく、早稲田同様絶好調とはいえない区間があった(2・7・6・10区)。
 が、青学にはほぼ調子がドンピシャと思われる区間も1・3・5・8の四つあった。

以下、あまり言われていないことを中心に書けば。

1)全日本では「先手必勝」で最終区まで青学を脅かすことができた早稲田だが、箱根でそれができないのは序盤の2区がエース区間だから。青学には2区にエースの一色君がいるので、早稲田もここをカバーすべく1・3区に強い選手を配した。

そこで、まず痛かったのは1区の超スローペース。
東洋大・服部君はトラックほど長い距離は飛び抜けていないにも関わらず、「格」的には誰も彼の前に出られない。
妻(単身赴任中)宅がある蒲田(15キロ地点)で応援したが、集団はほぼダンゴの横一線・・・早くもこの時点で頭を抱えることになった。

で、あまり言われていないこと。
実は各校にとって当てが外れたのは、飛ばし屋である「中央学院のハチマキ1年生」がここに出てこなかったことではなかっただろうか?
出雲の1区、11月の上尾ハーフの前半をハイペースでぶっち切った「ハチマキ君」は今回の3区でも前半を大快走。
彼さえ1区に来ていれば・・・ああした牽制はまず生じなかったはずだ。

2)青学の1区は(1年生鈴木君=不調欠場と7区を走った田村君=風邪)の代役と言える選手。
田村君の不調を知らないファンだけでなく関係者の誰もが、彼のことを「アテ馬」としか考えていなかった。

経験の少ない選手を思い切ってここに抜擢した原監督はやはりスゴい!
スローペースの1区(=力や実績のある選手との差がそう開かない)を見てきっと、勝てる確率がかなり高くなったと感じていただろう。

駅伝各区間の争いは「喧嘩」でもあるので、早稲田の理想としてはここで青学を「潰しにかかりたい」所。
結果はもちろん早稲田のエースが先着したものの・・・「ドンピシャ」に加え「スローペース」の追い風は、実は青学に対して吹いていた。

3)早稲田2区の永山君は数校に抜かれたが、それは全く最小限。
一色君との差を1分以内に抑えたのでむしろ大変よくやったのではないか?
特に集団から遅れてからラスト3キロの登りをよく粘ったことを評価してあげるべきだ。

2区68分というのは割と普通のように言われるが・・・山越えのハーフを62分で走り、かつラスト2・1キロの急坂を6分少しで登らないと出ない記録。
全く他の区間とはレベルが違うのだから。

(ちなみに、わが家でこういった話をちゃんと分かるのは長距離やってる5番目だけ:笑)

4)早稲田3区の平君は名主将らしく序盤から猛追。早稲田の中では今回最も絶賛された選手の一人だ。
が・・・状況的に止むを得なかったとはいえ、前半の5キロの下りで少し足を使い過ぎたかも知れない。
結局、出場すら危ぶまれていた秋山君(一応5番目の大先輩!にあたる)にラスト3キロで24秒も盛り返され、「格」から言えば当然取らなければいけない区間賞を持って行かれた。
要は本当はもっとスゴい選手だと言いたい訳だが・・・この辺が駅伝の「綾」というものなのだろう。

5)5区の登りで早稲田は青学に迫ったが、その差のほとんどは登り区間ではなく、下りに入ってからの差(56秒勝ったうちの46秒がココ!)。
逆に6区では青学が早稲田に1分54秒の差をつけ優勝を事実上決定づけたが、下り区間のタイムは実は10秒しか違わない(早稲田6区の石田君にも下り適正はある!)。

6)1区とは逆に、終盤の「喧嘩」で潰されてしまったのは早稲田8区の太田君だった。
飛ばしても飛ばしてもどんどん離されていき・・・焦り含めて完全にリズムを狂わされてしまったあげく、最後5キロに勝負どころとなる登り坂・・・。
彼は11月に1年生ながらハーフを62分台(チーム4位)で走っていたのだが・・・4分という、ヨーイドンではまずありえない差がついてしまった。

半分は自滅。残り半分はこの区間にマラソン2時間11分の選手を置ける青学はやはり強かった! てことになろう。

7)出なかった選手では昨年6区の佐藤君、10区の藤原君ともに残念だった。
特に佐藤君は最後なので何とか走らせてあげたかった。

メンバーと遜色ない実力を持ちながら走れなかったもう1人は、1年ホープの新迫君。
高校駅伝を最高記録で優勝した世羅の前・主将で、秋の全日本インカレ5千mでは平君・田村君・東海大の1年エース(今回1・2区)らに先着し、一色君とは0・7秒差の4位!の実力者だ。
 報告会で「今回は初めからなかったの?」と聞くと、「少し故障してしまったので・・・」とのことだった。

あまり言われていない部分でもう1人。
チームにとって実際には構成上一番痛かったのは、春シーズン頑張った車田君(2年)がオーバワークでメンバー入りできなかったことではないだろうか。
(今は2-3月の試合目指し別調整中ということなので、是非復活して欲しい)
 

・・・みたいな「たら・れば」を言えばそれこそ切りがないのだが。
後述2名のうち少なくとも1名を往路のスピード区間に配し、復路7区にもう1枚(例えば4区の鈴木君を)残す(井戸君は9区)ことが、チームとしての理想だったかも知れない。

(それだと「智樹井戸」もしくは「井戸だけ」になり、僕的にはちょっと値打ちが下がってしまう訳だけど・・・笑)。

三千障害専門の大木君は今回山登りの控えだったが、「登りだけなら安井さんにも結構つけました」とのこと。

期待しているぞ。

**************

(以上引用)

来年のピーキングがうまく行きますように。
ま、ワタクシもだがな(笑)

2017年1月 9日 (月)

「僕の音楽キャリア全部話します」読了

「僕の音楽キャリア全部話します」(松任谷正隆著・新潮

社)読了。
突出した才能があってヒット曲を飛ばし続けて来たと思わ

れがちなユーミン氏とて、彼女が作った元々の曲には手が入

り、バックで楽器を奏でるさまざまなミュージシャンの個

性が加わっての名作となる。
プロデューサーであり、ミュージシャンであり、財政的なこともやりくりしてきた松任谷正隆氏。
ん?これって・・・政治家の事務所でやっていることとの

共通点が多くてビックリだ。
7万5千人の観客を集めてのオールナイトコンサート「吉

田拓郎・かぐや姫 コンサートインつま恋」(1975年

)で、拓郎氏が「人間なんて」を歌っていると朝日が登っ

て来て、ひとりの男が燃え尽きていくさまとか、限界を超

えたところになにがあるのか等々の記述があるのだが、ま

さに総決起大会の緊張感・高揚感と共通するところあり(

笑)
「当選師」ではないが、正隆氏、最初は吉田拓郎氏の初当選の現場に立ち会い、志を同じくするユーミン議員と結婚。新人議員を育てたいと思ったら、杉真理候補は他党で出馬が決まっていて・・みたいな。
これ読んでいると、やっぱりいい作品には「手間隙」と「お金」がかかっているというのもよくわかる。
選挙もさ、広告代理店じゃなくて、松任谷正隆氏とか伊集院光、じゃなくて静氏にプロデュースを頼んだ方が、効果的かのかもな。
なんてことを思った一冊なり。

15966032_1221877187891724_810270431

「筆記試験」「論文」より政治家を語るもの

小池知事の「希望の塾」から来年の都議選の候補者選びが具体的に動き出した。
1600人が受験した、というが、以前にも書いたがこの数は政治関係者にとっては真新しいものではない。
民主党も国政候補とは言え政権交代前の2008年の公募で1300人あまり、政権交代後の2009年11月に実施した公募には1か月あまりで1982人(男性1653人、女性329人)から応募があったと、翌年年初に発表している。
一定数「議員に挑戦したい」という人はいるのである。

(その時との違いは・・よもや公募試験でお金を取ったり等の発想がなかった(笑)まあ、当時の民主党がそれをやったら批判を浴びただろうが。そういう意味では橋下さんの維新の「クッション」は大きい)

「希望の塾」のセレクションにはふたつの「新しさ」がある。
まずは試験内容だ。
「筆記試験」と「論文」。
今まで公募で「筆記試験」を課す政党等はなかったはずだ。
なぜなら、それを「学歴」で推し量ってきたからだ。
この「筆記試験」の内容は政策秘書の試験レベルなのだろうか?
設問が気になるところだが、
18歳の学力ではなく(笑)今のことこの業界に関する知力を明確に点数化できるという点では良いことだろう。
そして「論文」。
定型の作文が出来るかどうか、記述内容が主題から逸脱していないか、知識量や提言力等々も推し量ることができる・・はずだが・・。
「論文」を課す試験は、今までの政党等での「公募」では行なわれて来たが、ただ採点がなかなか難しい。1500人以上の規模となったらなおのことである。
となると、逆に、表面的な判断しか出来ない、差がつき難かったりもするのだ。

もうひとつの「希望の塾」の新しさは
「現職にも同じ課題を課した」というところであるろう。

過去にさまざまにセレクションに関わって来た経験から言うと、
現職もしくは元職の議員に対してのセレクションは一回の論文で計るより、もっとその議員の資質をより正確に量るメルクマールがあるのではないかと思っている。

政治資金収支報告書と政務活動費の使い方とその記録・報告、そしてHPやビラ等での情報発信の蓄積。
ちなみに提出日もポイント(笑)さっさか出す人と提出期限から遅れて出す等々で、仕事ぶりってわかる。細かいけど、実はそういうとろに政治家の精神は宿る(笑)
まあ、これらを「合わせ技」で見れば、だいたいその議員の資質や素行(!)が見えて来るのだ。

はっきり言えば「筆記試験」「論文」の10倍ぐらいはその政治家がなんたるものかを語るね(笑)

情報発信の点から行くと、たまにブログやSNSは一切やらず
「地元活動に集中しているので、発信はしていない」という議員もいるが、イマドキ、動いていれば、誰かしらがその人について記載をしている。検索をかけて全くヒットしないと言うもの政治活動者としては不可解だから、この辺もセグメントポイントかも。

現職は数も限られているから、手間隙がかかったとしても、本当に真剣にセレクトしようと思ったら、この「ふるい」に掛けることは必要なんだろうと思う。

こういう「記録」に関しては、過去にはさかのぼれないから、嘘もつけないし、ごまかすことも出来ないからね!

昔は、政党等の「公認」というのは「暖簾分け」的意味合いがあって、それを得るまでには代議士秘書になって滅私奉公して、という過程があったが、最近では「フランチャイズ化」している。
選ぶ側も選ばれる側も「忠誠」を推し量るなどという時間のかかる儀式を経ずしても、
経営本体に迷惑をかけなければどんどん出店してオッケー、みたいな感じに変わって来ている(ような)。

いずれにせよ、「希望の塾」。
思惑とは別なところでの魑魅魍魎もありそうで、
逆にだからこそ目が離せず(「渡鬼的魅力」?笑)まあ、そこんところも計算ずくなのだろうが、
最終的にどんなふうに候補者がセレクトされて行くのか、楽しみである。

リンクを貼ったのは民主党時代、公募に応募した方の体験記。
彼の場合は国政だけど、基本、ステージが変わっても公募候補の奮闘には同じ哀切がある。
偶然見つけて興味深かったので、貼っておく。

http://blog.livedoor.jp/matsuoka…/archives/cat_50028724.html

また、大田区議会議員の岡たかし議員も「普通の会社員が民主党の公認を得て議員になるまで」というブログを書いていて、参考になる。

http://okatakashi.seesaa.net/article/198297304.html

セレクトしているつもりでいる側の言動や過程がこれだけリアルの記録されているというのもすごいなと思う。

2017年1月 8日 (日)

美奈子氏妊娠と社会の不寛容

http://jisin.jp/serial/エンタメ/oshimarie/27115http://jisin.jp/serial/エンタメ/oshimarie/27115
ふと目に入った「美奈子の第7子妊娠で考える結婚離婚を繰り返す女の共通点」と題された記事を読み、目を疑う。

「「ヤンキーほど、無計画に子どもを産む」なんて世間ではいわれることもあります。すべての元ヤンがそうではないにしろ美奈子さんの半生をみていくと、ヤンキーになるまでに背負った経験や感情、人としての未熟さが子だくさんという状況を生み出しているのかもしれません。」

・・・

驚いた。
目を疑った。
「人としての未熟さが・・」って、か、書けるか?

記事は美奈子氏個人を例に取り上げつつも、
展開されるのは「子を持つこと」「子育て」に対するまさに「社会の不寛容」である。
「初詣ベビーカー論争」より、ことの本質としてはかなり深刻な気がする。

「少子化の時代に7人というのは本当に凄いことです。ただ経済面での不安要素を残し、多感な時期の子どもがいるなかで再婚相手との子を新たに持つ選択には「常識的に考えて賛同しかねる」という意見もあるのでしょう」

美奈子氏と同様、ワタクシも「経済的な不安要素を残し」「多感な時期の子どもがいるなかで」「再婚相手との子を持つ選択」をした5児の母だ(笑)

「経済面での不安要素を残し」の部分で言えば、イマドキ、どの家庭においても子育てにおける経済的不安要素は残る。
確かに多産系はさらにリスクは高まるが、地方自治体等では多産家族に対する支援も「充実」とまでは言えないが、保育園の3人目は無償等々、様々な面での支援制度はある。
もちろんこれでは足りない。大学他高等教育が無償にならないと不安要素は取り除けないとも実感する。
この記事を書いた著者が多産系家族が抱える「経済面での不安要素」について、どこまで具体的に理解しているかはわかないが、いずれにせよ、そこまで心配するなら制度面での提言までしてくれって感じ。でなければ、単なる無責任なおせっかいである。

さらに、ワタクシが顎が外れたのは「多感な・・」のところだ。
「常識的に考えて賛同しかねる」って・・世間に賛同してもらわないと子どもは産んではならないのだろうか??
「ザ・社会の不寛容」。極まれり、だ。

文章はさらに続く。
「彼女の性格は、そのときの気持ちに正直で衝動的なタイプなのだと思います。ある意味“女性的”といえるのかもしれませんし、そんな彼女の性格がバツ3になっても男性からモテる理由の1つなのだと思います。」

さあ、皆さん、ここはポイントでっせ。
大学の授業だったら絶対、宿題出します。
「著者が”女性的”と考えているものは何か。
またバツ3となった女性・男性の状況をデータを用いて比較し、考察すること」

さて、冒頭であげた文章に戻る。
再度掲げる。

「すべての元ヤンがそうではないにしろ美奈子さんの半生をみていくと、ヤンキーになるまでに背負った経験や感情、人としての未熟さが子だくさんという状況を生み出しているのかもしれません。」

美奈子氏の著書を読んだとしながらも、引用もなく、DV等の影響があったであろうことだけを取り上げて、子だくさんの状況を生み出しているのは、彼女個人の「人としての未熟さ」と帰結するのはどうなんだろうか。
万人に触れるメディアで個人の尊厳を犯していることにならないのか?
タレントだったら良いのか?

最後に、著者は言い訳程度にこんな文章で自身へのリスク回避を行なう。

「ただ子どもを一人もまだ産み育てておらず、しかも自分第一優先でしか生きたことのない筆者としては「生き方は別としても、子どもを育て続ける彼女は凄い」と、それだけは批判する声に対して言いたくなったのでした。」

「批判する声」とは著者自身とも読み取れる。

ま、平たく言えば、
批判したかったのは、子どもを産み育てつつも「自分第一優先で」生きている(ようにみえる)美奈子氏だった、ということなんだろうな。

次々、オトコを変え、離婚結婚を繰り返すのはけしからん。
オンナはもっと貞淑であるべきだ。
父親の違う子どもを次々産むのは止めてけれ。
社会の秩序が保たれん。
「子育て」をしているうちは、おとなしくしろ。思慮深く振る舞え。
経済的にも自己責任。
社会に経済的に迷惑がかからないようにしろ。
その担保がなければ、産むな。

それが「社会の(不寛容な)常識」だから。

そんなことにとらわれず、わははと笑って生き抜こう。
いや、美奈子氏、既に、そうしているか(笑)

がんばりましょう!!

 

2017年1月 6日 (金)

「初詣にベビーカー」論争に思ふ

「初詣にベビーカー」論争なるものが、新年早々行なわれているらしい。
神社仏閣好きなワタクシとしては、たとえどこの神社を選んでも、ひとりでさえ登るのに息上がる石段があることが頭をかすめる。
あそこをベビーカーであがる勇気はない。
たとえエレベーターやリフトがあったとしても幼児を連れていくには自分へのリスクが高すぎると・・あくまで「自分視点」から、初詣は少なくとも三が日は避けるだろうなと咄嗟に思う。
それは子育て世代や障がい者の自由を奪うという話とは全く別の話として。

「ベビーカー禁止」を掲げたお寺も、それなりの理由があってのことのようで(ベビーカー優遇を盾に大人たちがファストパスのように優先参拝をする😭等々)、今回の問題に限っては、「社会の不寛容さ」とはちょっと違った問題がそこには潜んでいるのではないかという印象を持った。
同様のことを、普段は意見が違うなと思うことの多い山本一郎氏http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamoto…/20170105-00066269/書いていた。
「新幹線等で子どもが泣いてイライラするのは子どもに対してではない。親の対応に対してだ」といった内容のアンケート調査についても紹介しているが、世間の反応はまさにそうなんだよな、とも思った。

ワタクシがベビーカーをひいていたのは今から24年〜10年前のことで、ベビーカーもコンビかアプリカしかなかった時代だから、今の状況を論じるには情報が不十分だろう。
ただ、あの頃、ベビーカーにひとり乗せ、別のひとりで手をつなぎ、背中にはもうひとり背負って、今で言うワンオペ状態で文字通り「号泣しながら」子どもたちを雨の中保育園に送った日を考えると、
今は兄弟でも対応可のおしゃれなベビーカーも、ネットの発達で瞬時に出先の状況も含めたさまざまな情報が得られるけれども「そこ」じゃないんだよね、というのは十分理解できる。
「そこ」以外の、この国で子育てをする人々が本当にほしいところについてはここ20数年、ほぼ進化がなかったのかもしれない。

そう、「初詣にベビーカー」は「社会の不寛容性」の問題とは別のところに問題の所在があると思うが、
逆に言えばそここそが問題なのだと収斂されるところに、
子育てど真ん中世代がいかに普段から「社会の寛容性」を求めてるのかという、なんとも切ない、哀しい現実があるのだ。

話は変わるが、先日、たまたま子育てを一緒にした仲間と車で走っていると、保土ヶ谷のハングリータイガーの看板が目に入ってきた。
子育て真っ最中の時代に、本当によく通ったある意味「聖地」である。

「なんで、あの頃、あんなにハングリータイガーに行かなければならなかったんだろうね」

鉄板は熱い。熱いソースも飛ぶ。
子どもはじっとしていない。ゆっくり食べられたもんじゃない。
だのに、なぜ?

それが合理的ではないとわかっているにもかかわらず、行かざるを得なかったのだ。
子育て真っ盛り時代にかかる過剰なストレスが、
外食したい、旅行に行きたい等々、子どもがいなかった時代と同じように楽しまなければならないという「無理くりオーダー」を自分に課し、ドツボにハマって行くというパターン。

店を出る頃には夫婦喧嘩(笑)
車に乗せた途端、騒ぎ泣きで疲れ切った子どもは沈没。
我もぐったりするのだが、それでもミッションコンプリートした満足感と達成感。
逆に言うと「外に晒される=社会と接する」ことで生じるある種独特の緊張感や疲労感がないと、それらは得ることができなかったのかもしれない。
まさに「生きている実感」だったのかもなあ。

今思えば、なんであんなに意地になったのかもわからないが、いや、それは本当に意地だったのだ。

・・なんてことを思い出しつつ、
久しぶりにハングリータイガーに行ってみようと思うのであった。
たぶん、大人だけで行っても、つまんないんだろうな(笑)

2017年1月 1日 (日)

紅白歌合戦に見る「民主主義」

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

元旦の朝。

中学1年生の5番目がテレビを見ていて、
お久しぶりの乙武氏が「(大方の見方のように、トランプでなく)ヒラリーが勝つとおもっていました」と言ったところで、ポツリ。

「これって、昨日の『紅白(歌合戦)』やんな。
誰も赤組が勝つとは思わなかった・・」

お茶の間や会場の投票では圧倒的に白組勝利でも、
幾人かの「今年活躍した」というキーワードで、番組側が選んだ審査員の意見でいとも簡単に結果がひっくりがえる・・。

「お茶の間で投票する意味ないやん」

いや、そうではない。すくなくとも「民意と結果が離れている(かもしれない)」ということは示せたかもだから。

・・などと、説明しつつ、

2016年の締めくくりの紅白歌合戦は、奇しくも「民主主義」や「選挙」を教えるうえでのよい教材であったことを知る(笑)

以下は産經新聞より。
NHKによると、勝敗は今回
視聴者2票▽会場2票▽ゲスト審査員10票▽ふるさと審査員1票-の「計15票」で決められ、
視聴者と会場の4票が白組に入ったが、審査員とふるさと審査員の11票のうち、9票が紅組に入り、「赤9票、白6票」で紅組の勝利になったという。(引用以上)

「ふるさと審査員」だったタモリとマツコデラックスは入場券を忘れたため、棄権扱いだしな(笑)
票の配分も含めて、ある意味今起っていることへのアンチテーゼとしての意図があっての演出だったらすごいけど。

2016年12月21日 (水)

「逃げ恥」にみる政治課題  ①事実婚>法律婚

「(結婚で)面倒が増える」
「なくても困らないものをわざわざ買う?」
「別れる時にキレイに別れられない」

社会現象ともなった「逃げ恥」。
ドラマで育って来たバブル世代に夢と希望を与える石田ゆり子を裏主役に配置しターゲット層を広げたり、
同じく若者たちの恋愛と結婚・家族の諸々を扱いブームとなった「ふぞろいの林檎たち」(1983年放送・・ぬわんと33年前!!)で潔すぎる脱ぎっぷりを披露した高橋ひとみが星野源の母役で登場、また藤井隆とリアル夫婦である乙葉を最後に登場させる等々、配役の妙も見逃せなかった訳だが、
実はこのドラマ、日本が内在する様々な課題を出したり引っ込めたりしつつ、見る側とひとつひとつ共有・確認する、ということも。
最終的にはそれらが政治課題であることを、市議会議員や、選挙運動風景を「チラ見」させることで、逆にかなり示唆的に表していたのであった。

何回かに分けて、「逃げ恥」が発した政治課題を考えてみよう。
まずは「婚姻」について。
冒頭の台詞はドラマの中での台詞である。

①事実婚>法律婚

ドラマの設定では、主人公であるみくり(新垣結衣)と津崎(星野源)は便宜上「婚姻する」ことが、お互い利益に一致することから「契約結婚」を選択することから展開して行く。
取り決めの際には、生活を共にすることでの費用の軽減や、税制上の優遇等々の話もしている。
そこには恋愛感情やセックスは介在しない。
ドラマを見ながら、この「婚姻」は成立するのだろうかと言う疑問が頭の中をグルグル。
「契約結婚」と「偽装結婚」は何が違うのだろうか?
脳内六法全書がパタパタと捲られる。

婚姻を巡る法律は以下である。
まず、憲法。
第二十四条
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」

雇用主と労働者。みくりと平匡さんの関係は平等なのだろうか?

次に民法を見てみよう。

第752条(同居、協力及び扶助の義務)
「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」
これは夫婦の同居義務、協力義務、扶助義務についての規定である。
民法上は明記されていないが、夫婦間の基本的な義務として貞操義務もあると解されている。だからこそ、貞操義務違反(不貞行為他)は離婚原因を構成し、不法行為にもなるのだ。

民法第755条(夫婦の財産関係)
「夫婦が、婚姻の届出前に、その財産について別段の契約をしなかったときは、その財産関係は、次款に定めるところによる。」
夫婦が財産契約ができることを定めた規定。婚姻の届出前に契約をしておく必要があり、届出後の変更は許されない(民法第758条第1項)。
夫婦財産契約がなされなかったときは、夫婦間の財産関係の規律は、民法に定められた規定(法定財産制度)となる。

民法第760条(婚姻費用の分担)
「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する。」
夫婦間の婚姻費用の分担についての規定である。この費用には金銭による分担だけでなく、家事や育児の担当などの労働による分担も含まれると解されている。例えば、妻が専業主婦の場合、妻は家事・育児を担当し、夫は妻に金銭を渡すことが婚姻費用の分担となる。

民法第761条(日常の家事に関する債務の連帯責任)
「夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない」
日常の家事に関する法律行為についての夫婦の連帯責任を定めた規定である。

んんんんー。
これを見る限り、もしふたりのうちどちらかがこの婚姻が無効と主張した時に、裁判所で「婚姻」として認められるかどうかはわからんよね。

おっと・・そうそう、そもそも「事実婚」だったんだっけ。

彼らが「事実婚」にした理由は、簡単である。
「法律婚」より有利だからだ。

冒頭の台詞に戻ろう。

「結婚で面倒が増える」
「なくても困らないものをわざわざ買う?」
「別れる時にキレイに別れられない」

戦前の婚姻は「家」の継承がメインテーマで、そこに当たり前のように「ロマンチック」が入ってくるのは戦後、憲法24条以降のこと。
相当な財産等やお家存続の義務があれば、そのコストのある種合理的な意味を見いだす場合もあるだろうが、
特にそうしたこともないだろう若い世代は、
もはや「法律婚」をすることによって負担が増える、と考えられているのだ。
「事実婚」で十分なのである。

ワタクシたちが若い頃(30年前)は、「事実婚」をする人は、「法律婚」をする人より愛情本意で勇気があるイメージがあった。
「事実婚」をしても社会保障の点から言えば婚姻しているメリットはないのだから「事実婚」こそ愛がなければ成立しない前提だったと思う。
が、30年後の今、面白いことに愛情が介在しないからこそ「事実婚」という選択肢が当たり前のように出て来たことが改めて興味深い。

つまりは「法律婚」をすることで、
法的安定性より、法的不安定が増すと考えられ、実際そうだということなのだろう。
確かに、772条の「離婚後300日問題」など、事実婚では全く起らない問題であるしな。

「事実婚」>「法律婚」

立法側にいるものとしては、かなり情けない話だが、
どこまでどう規定をしていくかということについてもタブーを越えて議論をしなければならない時期に来ていると思う。

少子化対策等を心の問題とし、説教や道徳等で解決しようとして失敗し続けている「心でっかち」な政治に対して、痛烈な批判をしている「きずなとおもいやりが日本をダメにする」(長谷川眞理子・山岸俊男著・集英社インターナショナル)にも指摘があるように、
戦後70年、立法者が現実をしっかり見ることを怠って来たということでもあるんだろうが。

2016年12月10日 (土)

「プリンス・ヒロ論」①

ご存知の方も多いと思うが、ワタクシは「皇室ウォッチャー」。

特に「プリンス・ヒロ」を語らせたら、日本有数なのではないかと勝手に思っている。

「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」

働く女子イチコロの言葉を、こともなげにつぶやくプリンス・ヒロ。
何度も断られつつも、諦めず、愚直に欲しいものだけを求めていく姿に、プライドをそもそも持つ必要がない究極のセレブリティ故なのだろうかと思ったりした。

しかし、そんな「プリンス・ヒロ」ウオッチャーのワタクシが、
どうしても攻略できない山がある。

柏原芳恵。

そう、プリンス・ヒロは柏原ファンなのである。

柏原は1965年生まれ。
どうでも良いことだが、ワタクシと同級生(笑)
キョンキョン、明菜他、ライバル多しの昭和40年巳年世代である。
たまたまだが、周りに柏原ファンがおらず、どの層が柏原ファンなのかがわからないのだが、
ブルック・シールズファンでもあることも重ねれば、おぼろげだがストライクゾーンがわかってくる・・ような気がする。

で。
その謎を解明したくなって、iPodになぜか入っていた!!柏原芳恵のライブアルバムを聴く。
スタジオ録音でなく、ライブ。必ずや素の部分が出て来るからである。
「お・ん・な飛翔〜柏原芳恵リサイタル」。
ちなみに1986年プリンス・ヒロはこのコンサートに行き、バラ「プリンセス・サヤコ」を贈っている。

「わたしも20を過ぎまして、『女』という文字の意味が少しだけ、わかりかけてきたような気がします」

20歳の芳恵。
この回りくどさの奥にある、自己抑制!

なるほど、なるほど、なるほど。

弾けることもできない。
14歳で芸能界に入った芳恵はずっとこうした抑制を自己に課しつつ、振り付け通りに歌い続けて来たのだ。
例えば「ハロー・グッパイ」・・生まれ変わったら、コーヒーカップにはなりたいはずもないだろうに(笑)それが大ヒットという皮肉。
「春なのに」で、ようやく、最後、テンポをずらすところでチラ見程度の自己決定権が見えるが、そここそは逆に「自由になりそうでなれない」切なさ全開。
自分で自分をコントロールできないもどかしさ。かといって、それに反論したりもできないつらさ。
同世代のアイドルたちには求められない役割を、柏原芳恵は果たそうと必死なのである。
まさにそこがプリンス・ヒロの心にバイブレートするのであろう。

「いかがなものか」「人格否定」等々、プリンス・ヒロの会見で発言は、その後の社会に影響を与えているものが少なくない。
この言語感覚も、抑制の中から生まれて来たものなのだろうと思う。

しかし、子どもの頃は、その抑制を密かに家族の中では解いていたらしいというのを知って、驚きとちょっとした安心を覚えた。

万博の視察に来た浩宮と礼宮。弟君はあっという間に飽きて、控え室に時間よりずっと前に到着。
そこの用意してあったお土産を選んで遊んでいた。
しばらくして、浩宮到着し、
「なんでおまえが先に選ぶんだ!!」
あくまで最初に選ぶのは自分で、弟は分をわきまえろ的な感じで、烈火の如く怒るという場面が、「クロトンポイントの夏」(町永妙子著)に出てくる。

それから45年以上が過ぎて、
「生前退位」や家族の体調問題等々、気を遣う日々が続いているのだろうが、たまには芳恵氏の歌を聴きながら、癒されてほしいと思ったりする。

2016年12月 3日 (土)

「性と国家」〜「暴力と恍惚」

「はじめに断っておくが、以下のワタクシの論考は特定の政党やグループを非難するものではない。
これは、この30年間、ワタクシが見聞きし、体験してきた「選挙」と「政治」が持つ「暴力と恍惚」について一考察である。」

今年の秋は短かった。
季節の変わり目を感じることもなく、ただただ日々は流れて行く。
そうした中でワタクシは今年の夏から秋にかけて関わることとなったいくつかの選挙を通じて感じたことを、上記のような書き出しで文章にし始めた。

「選挙」に暴力性があるという、そしてそこにはジェンダーという構造的な問題が内在されていると気がついたのは、
(特に鳥越)選挙後に「誰も何も語らない」という、なんとも異様な光景を目にしたからだ。
30年、選挙に関わって来て、初めての事態だった。

選挙権・被選挙権の両方を行使する身として、書き方はとても難しい。
しまいには語り手を変えてみたり、試行錯誤している。

いずれにせよ、ワタクシは「この夏の選挙を通じて、なぜ、ワタクシはこんなに傷ついたのだろうか」という個人的な疑問から出発し、民主主義や国家を語るという壮大な命題にチャレンジしはじめてしまった。
誰も待ち望んでいないと思うが(笑)いや、でも、これは学者やマスコミ等の言論人が見ているものとは、またひとつ違った視点からの「本質」なのではないのか。
見てしまった、知ってしまった以上は思考し切らないと、そしてできれば「誰が読まなくても」(ここ、大事 笑)言語化して残さないと。イエズス様はみていますから、と、ワタクシの中でシスターたちが忙しく動き出すのである(笑)

そんな折、タイミングよく「性と国家」(河出書房新書)が刊行された。
著者は北原みのりさんも佐藤優さん。どちらも良く知るおふたりだ。
「はじめに」で佐藤さんは「国家の持っている本質的な暴力性の解明に北原さんが、文字通り、命掛けで取り組んでいる」と書いている。
「国家の持っている本質的な暴力性」。
なるほど。
ニワトリか卵かはわからないが、「民主国家」に正当性を与える「選挙」にこそ、それが体現、発露されていて、当然なのだ。

この「続き」を、北原さん、佐藤さんととことん語りたい。
「本を読んだ」というより、「エア横はいり発言」を幾度もしながら、対談に割って入ったという感覚。

リアルで「続き」が実現することを、楽しみにしている。

«「いらない記憶」が残るワケ