2018年7月18日 (水)

「納采の儀」が持つ意味〜小室氏がフィアンセではない理由

宮内庁は米国フォーダム大学が「日本のプリンセス・マコのフィアンセが入学へ」とホームページに記載したことに対して、納采の儀が済んでいないためフィアンセではないと伝えることにしているという。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl…

さて、この点については、宮内庁並びに関係者が「「納采の儀」の前なら引き返せる」との見解であろうことは、既に現代ビジネスで指摘している。

しかし・・当事者の心はどこにあるのだろうか。
非戸籍者の過酷さを見る。

以下、現代ビジネスより抜粋。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54396

「納采の儀=結納」の大きな意味

 憲法第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 婚姻は上記憲法第24条のもと制定されている戸籍法第74条に従って届け出ることによって効力が生じる。
 その手続きは簡単で、民法第739条第2項により届出は当事者双方及び成年の証人二人以上から、書面又は口頭で行なう。
 ただ、実はいつ結婚が成立したかに関しては国家法と「届出」と社会習俗の「結納・挙式」の間で乖離があることが明治以降に問題となってきた。

 まさに今回の眞子内親王の婚姻延期の発表が、一般の「結納」にあたる「納采の儀」の前に行なわれたというのはひとつのポイントである。
 最近では「結納」をする人は減ってきている。しかし、なおも婚姻はその予約ともいう「結納」、その後に挙式披露宴をし、婚姻届出を提出して結婚生活が始まる、というのが「順序」とされている。
 どこで婚姻が成立するかといえば、いわずもがな民法第739条第1項により「婚姻は、戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることによって、その効力を生じる」である。明治民法第775条第1項も同趣旨であったが、結婚の社会的承認である結納、挙式、また披露といった儀式、また実質の婚姻生活の始まりと、法律上の届出との間に乖離があることが、明治時代から大きな問題となっていた。
 実質の婚姻生活が存在しても、当時の女性たちは届出をしたくとも戸主が反対したり、「跡取りを生むまでは届出を認めない」というものもあったりで、届け出を出すに至らない場合が多かったのである。
 こうした中で「結納」は大きな意味を持った。結納をし、婚約をすれば、当事者同士に婚姻への意志があり、内縁として夫婦に近い身分関係を認め、縁夫、縁女と言われ、服忌の義務も生じるとされた。縁女が密通すれば、姦通罪にも問われたのである。
 こうしたことは現在での「婚約不履行」等にもつながってくるところでもあるが、当事者が結婚の意志を示すだけでなく、儀式として社会的承認をえる「結納」を行なう前か後かでは二人の権利義務関係は相当に違ってくる、ということなのだ。
 つまり「結納」前ならば引き返せる、ということでもある。
 宮内庁が「婚約」でななく「婚約内定」解消も視野に入れているかどうかはわからない。しかし「婚約」ではなく、今の状態は「婚約内定」。
 ことほど左様に、女性皇族の皇室離脱は用意周到に準備されていくとも言える。

「LGBT」支援の度が過ぎる?はあ?

「LGBT」支援の度が過ぎる(杉田水脈「新潮45」)
はあ?
公的支援の軸は「生産性」なのか。
ワタクシはそうは思わないし、
一万歩譲って氏のいうような角度から見たとしても、
沢山のLGBTファミリーを見て来た。
社会に対する幸福生産性めっちゃ高いよ。ってことで、杉田水脈論再掲。

2018年7月14日 (土)

 「半分、青い。」に箱根駅伝をみる

「半分、青い。」
「怒濤編」に入り、もはやツッコミもできないぐらいの迷走。
毎回15分の間で脚本に強弱つけて、ある程度のクオリティを6ヶ月保ち続けるって、どれだけ難しいかがわかる。
朝ドラはモデルがいる「一代記」が主流となってきた理由がわかったような気がする。
箱根駅伝のブレーキを見る思いだ。

2018年7月10日 (火)

アクセスできるが読み解きにくい政治・選挙とカネ

現代ビジネスさんに寄稿しています。
政治資金収支報告書を見れば、誰にでもアクセスすることができる政治とカネ、選挙とカネの関係。
しかし、解説がないと十分に読み解くことは難しい。
細野氏の昨今の話題を切り口に前回の衆議院選挙を考察しています。

2018年7月 7日 (土)

小説教室で学ぶ「美しい顔」

この春から子どもに付き合い小説教室に通っていることは既に書いた。

先週は芥川賞にノミネートされた「美しい顔」(北条裕子著 講談社)が話題になった。
小説の一部に既に出版された著作物の一部と酷似する部分があった、というあれである。
講師は「全く問題ない」と言い切った。創作(フィクション)とはそんなものだ、と。
私たちが記す物語は、意識的にしろ無意識的にしろ、また姿形が類似していようがいまいが、既に発表されている作品や、過去の表現物の上になりたっている。
言葉は所詮、人をまねて発せられるもの。
感銘を受けた文章の一部が頭に残っていて、それを書いたとしてどこに問題があるのか―——かいつまんで言えば、そんな話だった。


ただ、ワタクシはその意見には違和感を感じる。

引用部分を自分の文章とした時点で「負けて」いるからだ。
人の営みでしか到達することができない言葉をつかわずとも、その状況を想像させ、心をかきむしり、もしかするとそこに確かに存在するものの、人が発せられない言葉を紡ぐのが小説の、フィクションの役割なのではないか、と思うからだ。

「群像新人賞」という大きな文学賞の応募作。
これが取れるか取れないかは、今後の人生に対してもたらすものは雲泥の差だろう。
少しでもよい作品にしたいという欲。
賞も取りたいという渇望。
それはとてもわかる。

参考文献を側に置いて、その文章をキーボードで打つ。
語順を変えたり、語尾をぼやかして「オリジナル」と主張できるようにしておくなどということは、書き手の技量のひとつでもあろう。
しかし、どうあがいても参考文献に書かれている言葉以上の表現はない。
そこで選ばれている言葉も、それをつなぐ「てにをは」さえも「それ以上」がないとしたらーーーー。
文章を書く人は皆、悪魔と対峙する瞬間がやってくるのである。

さて。
「文章を書いてお金をもらう」ということは、360度、どの角度からの批判を受けることでもある。
その「目」があること、また自分自身への誠実からも「盗作」と言われるようなことがないように、細心の注意を払う。ただ段々、それをすり抜けて行く技術も身に付いていくというのもあるのだが。

ただ「応募作」には、その時点では一銭の価値も発生しておらず、逆に言えばどんなズルをしようが「受賞」しなければ、その作品は日の目をみることはない。だからこそ、作品にとって最もよい表現を、たとえ抜き書き、盗作といわれる可能性があったとしても、黙って、自分の文章として提出する、といったことはあるかもしれない。
賞をとり、本になり、人の目に触れない限りは、そもそも道義的な責任など問われようもないのだから。

その「際」が最終選考作に選ばれるか、否かである。
最終選考作はたとえ選に漏れても書籍化される可能性がゼロではないので、そこからは内容も含めて慎重に扱われる。
ノンフィクション関連の文学賞の場合、著名な作家や識者が審査員となって受賞作を選ぶ最終選考に至る前に校正作業が入り、事実関係や参考文献も含めて一旦チェックを受ける。

小説の場合はあくまでフィクションだから、そうした事前のチェックがないのだろうか?
http://www.kodansha.co.jp/…/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/201…
これを読むと、講談社と北条氏の接触は受賞後、初めて、とあるのでそうなのだろう。

しかし、文章を事前の問い合わせもなく、無断で使われた側は穏やかではいられないし、
特に災害に見舞われた被災地で、当事者たちの言葉を集めた時の意図と違う使われ方をしているのであれば、抗議は当然であると思う。
http://shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/…/20…/07/post-3546.html

被災地や被災者を文章にすることを抑制しろというのではない。
一度も現地に入っておらずに書くことも否定することはないと思う。
徹頭徹尾、資料をもとに想像と組み合わせて、自分の言葉として語る分にはなんら問題がなかったのだと思う。
でも、そうではなかった。

「圧倒的なリアリティがある」と講師は言った。確かにそうだ。「今回は芥川賞はでないかも」とも。
全ての候補作を読んだところ、リアリティ、臨場感を持つ「美しい顔」がダントツだと言う。
そのリアリティを支えるものがコピペまがいならば、それはやはりアウトなのではいかと思うが、冒頭のように全く関係ない、というのが彼の評価だった。

「あと、嫉妬ね。北条さん、キレイなんです」。
そこは全く関係ないと思いたいところだが、プロモーション的には大事な要素かもしれない。プラスになってもマイナスになることはないと思うが、どうなんだろうか。

加えて「このテーマは被災地にしなくても書けたと思う。なぜ東日本大震災を選んだのか、そこはわからない」とも。
「3.11を描くことも必然となって、ハードルが上がる。
このテーマだったら、ほかの設定にすることも十分に可能だったのではないか」というような指摘もしていて、そこはなるほどとも思った。

いずれにせよ。
「美しい顔」で描こうとした被災者とマスコミの関係といった難しいテーマはより広範に問いかけられる結果となった。
小説として、そして皮肉にもノンフィクションとしても。

2018年7月 5日 (木)

児相と警察の全件共有に警鐘 議論にのぼらない子どもたちのトラウマ

警察との全件共有が先行する児童虐待対策等のなかで、議論にのぼらない子どもたちがいる。
ある日、突然「虐待」で通報された親子のトラウマをたどりながら、表層的な対策に閉じることに警鐘を鳴らしたい。

現在多くの市町村では、「要対協」(要保護児童対策地域協議会・要保護児童、要支援児童等のための関係機関のネットワーク会議)に警察署も参画している。
定期的に開催される実務者レベルのこの会議は、関係機関の情報共有の場でもあり、虐待に限らず基本、不登校や障害も含む全ケースの現状、支援方針などが議論されている。
にもかかわらず、情報共有が叫ばれるのは何故なのか。

それには理由があるのだ。

現代ビジネス

「ある日突然、「虐待」で通報された親子のトラウマ〜本当に必要な対策とは何か?」 で詳しく書いているので、ぜひ読んでほしい。

2018年7月 3日 (火)

「半分、青い。」は、日本の衰退を教えてくれるドラマだ

「半分、青い。」と日本の少子化対策含めた団塊ジュニア対策の失敗等について、現代ビジネスさんに寄稿しています。

2018年7月 2日 (月)

いじめの構造

この動画を見るのがつらい。
でも見なくては、と思う。
日本人、全てが見るべきだと思う。
「いじめ」の構造、そのまま。
これが日本の国会議員。
親の顔がみたい、などとは言わない。
50年も生きて、こんな言動しかできないというのは、あくまで本人の責任。
しかし同時に、幼稚で物ごとを単純化してしか考えられない、はしゃいだ彼らの姿は、
実は日本の姿をうつす鏡なのかもしれないと思うとなんとも言えない気持ちになる。

2018年7月 1日 (日)

女としての落ち度〜「杉田水脈(的女性)論」 序の序の序

「本来日本は、女性が大切にされ、世界で一番女性が輝いていた国だった」
「男女平等は、絶対に実現しえない反道徳の妄想」
「女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名の基、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。(中略)・・その結果、ドメスティックバイオレンスが蔓延し、離婚が増加。少子化や子どもの貧困の原因となっています」・・・

以前、「お気の毒すぎる国会質問」として
次世代の党(当時)杉田衆議院議員の衆議院本会議質問について書いたが、自由民主党の衆議院議員となって、どうやら事態はさらに「お気の毒」となっているようだ。

「日本の秘められた恥」としてBBCが放送した伊藤詩織氏のドキュメンタリーの中で、杉田氏はインタビューに答えている

「番組の取材に対し杉田議員は、伊藤氏には「女として落ち度があった」と語った。
「男性の前でそれだけ(お酒を)飲んで、記憶をなくして」、「社会に出てきて女性として働いているのであれば、嫌な人からも声をかけられるし、それをきっちり断るのもスキルの一つ」と杉田議員は話している。議員はさらに、「男性は悪くないと司法判断が下っているのにそれを疑うのは、日本の司法への侮辱だ」と断言。伊藤氏が「嘘の主張をしたがために」、山口氏とその家族に誹謗中傷や脅迫のメールや電話が殺到したのだと強調し、「こういうのは男性のほうがひどい被害をこうむっているのではないかと思う」と述べた。」

「女としての落ち度」もひどい発言だが、
私が最も注目するのは「社会に出てきて女性として働いているのであれば」の部分だ。

この国では
「女性として働いているのであれば」
→「嫌な人からも声をかけられる」
→「きっちり断るのも(女性の)スキルの一つ」

つまり、杉田氏自身が日本がセクハラ社会であることを認めている。
自身の体験も踏まえた上で。ここは重要だ。

一方で、杉田氏や長尾たかし氏らは、詩織さんのことを言っているわけではない旨をわざわざ言い訳した上で、
「当たらずとも遠からず」のイラストに対し、嘲り、笑い、蔑みの言動を行なっている。

批判するならば、真っ正面から批判すればいい。
「逃げ」の担保を取りながら、上から目線で笑いの対象にしていくというのは、悪質。卑怯である。

さらに「モラル」を持ち出す
「母」として。

‪「もし私が、「仕事が欲しいという目的で妻子ある男性と2人で食事にいき、大酒を飲んで意識をなくし、介抱してくれた男性のベッドに半裸で潜り込むような事をする女性」の母親だったなら、叱り飛ばします。「そんな女性に育てた覚えはない。恥ずかしい。情けない。もっと自分を大事にしなさい。」と。‬
それが母親というものです。」

というわけで、
「杉田水脈(的女性)論」をちゃんと書かねばと思っている。

問題は割ける時間あるかだが。

2018年6月22日 (金)

舞台『川辺市子のために』『川辺月子のために』が上演されます

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戸田彬弘氏作・演出による『川辺市子のために』(再演)が『川辺月子のために』(新作)と二本立てとなって8月22日より新宿サンモールスタジオにて上演されます。

テーマは無戸籍。
リリースにも以下のようなコメントをしています。
戸田監督は本当にすごいっ!
あの会話が重なって行くスリル(現実)を多くの方に体感していただければ。
「万引き家族」に震えた全ての方に観てほしい舞台です。

以下、ワタクシの推薦コメントです。

「市子はまるで、私が相談を受けてきた1200人あまりの無戸籍者のひとりのようだ。どんな雑踏にいても私は市子を見つけられるだろう。

観客はそんな市子をすり鉢のような舞台の上に発見し、くるくると回りながら吸い込まれていく彼女から目が離せなくなる。 
舞台はそのまま街角になる。部屋になる。学校になる。

「存在しない市子」と「存在する市子」。境界線には重い「沈黙」がある。その線をまたごうとすると、想像もつかなかった言葉、関西弁の、けたたましい応酬が激しい雨の滴のように落ちてくる。

語る、語る、みんな語る。市子のことを精一杯語る。
でも、肝心なことはわからない。
結局、「無戸籍」とはつまりそういうことなのだ。

戸田さんはこのリアルを一体どうやって掴んだのだろう。
全ての人、必見の舞台である。」

2018年8月22日(水)から9月2日(日)
◼︎チーズtheater第五回〈二本立て〉本公演
再演『川辺市子のために』
新作『川辺月子のために』
●劇場
新宿サンモールスタジオ
●チケット購入はこちら
《劇団予約フォーム》
https://www.quartet-online.net/ticket/cheesetheater5
《戸田彬弘さん専用予約フォーム》
https://www.quartet-online.net/ticket/cheesetheater5

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