2016年12月 3日 (土)

「性と国家」〜「暴力と恍惚」

「はじめに断っておくが、以下のワタクシの論考は特定の政党やグループを非難するものではない。
これは、この30年間、ワタクシが見聞きし、体験してきた「選挙」と「政治」が持つ「暴力と恍惚」について一考察である。」

今年の秋は短かった。
季節の変わり目を感じることもなく、ただただ日々は流れて行く。
そうした中でワタクシは今年の夏から秋にかけて関わることとなったいくつかの選挙を通じて感じたことを、上記のような書き出しで文章にし始めた。

「選挙」に暴力性があるという、そしてそこにはジェンダーという構造的な問題が内在されていると気がついたのは、
(特に鳥越)選挙後に「誰も何も語らない」という、なんとも異様な光景を目にしたからだ。
30年、選挙に関わって来て、初めての事態だった。

選挙権・被選挙権の両方を行使する身として、書き方はとても難しい。
しまいには語り手を変えてみたり、試行錯誤している。

いずれにせよ、ワタクシは「この夏の選挙を通じて、なぜ、ワタクシはこんなに傷ついたのだろうか」という個人的な疑問から出発し、民主主義や国家を語るという壮大な命題にチャレンジしはじめてしまった。
誰も待ち望んでいないと思うが(笑)いや、でも、これは学者やマスコミ等の言論人が見ているものとは、またひとつ違った視点からの「本質」なのではないのか。
見てしまった、知ってしまった以上は思考し切らないと、そしてできれば「誰が読まなくても」(ここ、大事 笑)言語化して残さないと。イエズス様はみていますから、と、ワタクシの中でシスターたちが忙しく動き出すのである(笑)

そんな折、タイミングよく「性と国家」(河出書房新書)が刊行された。
著者は北原みのりさんも佐藤優さん。どちらも良く知るおふたりだ。
「はじめに」で佐藤さんは「国家の持っている本質的な暴力性の解明に北原さんが、文字通り、命掛けで取り組んでいる」と書いている。
「国家の持っている本質的な暴力性」。
なるほど。
ニワトリか卵かはわからないが、「民主国家」に正当性を与える「選挙」にこそ、それが体現、発露されていて、当然なのだ。

この「続き」を、北原さん、佐藤さんととことん語りたい。
「本を読んだ」というより、「エア横はいり発言」を幾度もしながら、対談に割って入ったという感覚。

リアルで「続き」が実現することを、楽しみにしている。

2016年12月 2日 (金)

「いらない記憶」が残るワケ

今日は東大で授業だった。

終了後、学生が寄って来た。

「ぼく、東灘区なんです」
「あ、じゃあ、ワタクシの街頭演説、見たことある?」(by me)
「はい、何度も。いつも見てました」

嬉しいね♥️

選挙区を変わると、それまでやって来たことが「ゼロ=無」になるとずっと思って来た。空しいな。あれだけやった熱量はどこにいくのだろうかと悔しくも思った。

しかし、そうではないということを、最近つくづく感じる。

少なくとも、たとえば、彼の記憶の中には「ピンクの井戸まさえ」の残像が残っているぞ。
人生にとっては、基本「いらない記憶」なはずなのに(笑)

これって、すごいと思うのだ。

「いらないもの」が残っているということは、
ほんの数ミクロンだったとしても「ひっかかり」があったということだ。
ワタクシの訴えや姿が、届いていたということ?・・だよね。
当時の少年少女たちにはさ(笑)

票という形で帰ってこなくても、いい。

「まっとうな法律を持つ国に生きたいよね」

その思いを共有する仲間がひとりでも増えたら、ワタクシの政治活動は大成功!!

声をかけてくれてありがとう



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山下弁護士、川人弁護士、お世話になりました〜☆

2016年11月30日 (水)

「My first 政治献金♥️」

落選すると、周囲から言われることのまず第一は、
「地元活動に『専念』せよ」ということ。
「地元活動」とは街頭宣伝活動、戸別訪問活動(=公職選挙法で禁止されているが、実質はそれと同様のことを行なっている。これまた「本音と建前」が違う法律、)自治会等の集会や、神社等の祭り他の会合に顔を出すことだ。
あちこち会合をはしごし、「地域事情(=人間関係&自分の支援者になり得る人がいるか)」をリサーチがてら、そこに集う不特定多数の人に売名する(←重ねて言うが、禁止だけどねっ)との二つの目的を持ちながら、せっせと地域を歩くのである。

ま、と言っても祭りも集会も24時間やっているわけではないから、ボチボチ、なのだが、3巡目ぐらいから微妙な葛藤が心の中に生まれる。

同じ人の間をグルグルしていないか?

地域活動に参加をする人と言うのは、基本、PTAでも、自治会でも、祭りでも中心になって活動しているから、「述べ回数」で数えればかなりの人数と会っていても、グロスでみると以外に少ない、という現実に向き合うのである。

一方で「地域活動」の範囲は当然ながら、基本選挙区内。
しかーし、老若男女、議員を目指そうとする者が、どこからもお声がかからず、その地域だけで24時間過ごすと言うのは、かなり不健康、というか、ちょっと待て!他から声がかからんのか?ん?暇なん?って話にもなる。

この間も秘書と笑ったのだが、30年ポスター貼りをしているから、どの壁にはどの手法で貼付けるのがいいのか、一瞬で読み取れる能力は身に付いたが、それはワタクシの議員としての資質の、一体何に資することなんだろうか。自分でも甚だ疑問である(笑)

つまりはそこにかけた時間は当たり前だが、自己の能力を向上<支持車拡大。
しかし、それでいいのかと言う疑問もある。だからこそ、利権政治家みたいな者しか生まれてこないのではないか、と。

『専念』の度合いを計るのは本当に難しい。
有権者を軽視しているわけではないが、わかりやすい表現で言えば、ワタクシは例えば「第二の松原仁」になりたいわけではない。
つまりは「どんなところにも行って、顰蹙買いつつ名刺を渡して、でもなんだかんだ言って勝つ」という松原仁モデル(笑)=旧来型の選挙必勝モデルから、違う形で勝つモデルを作ってみたいなと思っている。
それは、ワタクシが母だから、女性だからという、男性政治家にはたぶんない、もしくはあっても数も高さも違ういくつものハードルを跳ばないとゴールには行き着けないと言う環境の違いもあるが、(松原仁には物理的になれない)
政治家の落選中の過ごし方を変えることで、政治家としての資質を持ちつつも、辞めざるを得ない人々を留まらせ、結果今より質の高い政治が可能になるのではないのかと思っているからである。

「My first 政治献金♥️

昨日の政治資金パーティで嬉しかったのは、今まで全く政治家を応援する活動をしてこなかった人が、こう言って、献金してくれたことである。

「する」と「しない」は大きな違いである。

彼女の初体験の相手はワタクシ。
嬉しい、と同時に、誇りでもある。

2016年11月29日 (火)

「保守本流」ファンタジー

産經新聞の記事。

http://www.sankei.com/premium/…/161129/prm1611290006-n1.html
民進党内で「保守本流「リベラル保守」の騎手争いが激化しているそうな。
確かに、ずいぶん前から「宏池会」を目指すべし、みたいなことを言う人々は多かった。
まあ、今回の玉木君の動きは別として、
大平正芳、石橋湛山・・等々、過去の政治家について学ぶことは大切だが、彼らの名前を錦の御旗に、その権威を利用して、目指すべき政治の「ファンタジー」を作る手法はくれぐれもやめてほしいなと思う。


それじゃ坂本龍馬好きな「維新」と変わらないから。


風呂敷のマントを被った瞬間、仮面ライダーよろしく、正義の身方になった自分に惚れ惚れ、という男子をついつい思い浮かべてしまう。


(特に)民進党(に集う人々)は、政治好きな人々が陥りがちだったこういう「幼稚さからの脱却」、そして「過去の政治家の誰もが対峙することがなかった事態に向き合っていることに対しての自覚」こそが求められているということに、もっと真摯に向き合わなければならないと思う。

代表の自宅や家族を公開することも悪いことではないのかもしれない。

が、同じ東京の中で、区内の貧困格差が最も大きいとされるところで格差解消や子どもの貧困対策を訴えている身としては、これはちょっと、無神経なのではないかとついつい思ってしまう。
党がどこまで真剣なのか、「想像」でなく「現実」の問題として本当に受けとめているのか、国民はそこに「リアリティ」があるかどうかで見極めようとしているのではないか。

な〜んてことを、「石橋湛山」の直系後輩(笑)のワタクシは思ったりする。
「石橋湛山」は戦時中、印刷機を持って疎開して、雑誌を出し続けたが、ワタクシもその気分。
「こっそり書いて」「誰かに届くといいな」と思っている(笑)

まあ、「湛山」を目標とするなら、まずは「高橋亀吉賞」取ろうぜ!!
あ、賞、休止中だった(笑)

2016年11月25日 (金)

選挙と露出

「選挙はいつですかね?」
たとえばテレビや新聞等、マスメディアに出る際、必ず聞かれるのが選挙の時期である。
地方議員でも国会議員でも、政治活動者であっても、当該選挙の半年前以降は、特別な役職(総理、大臣、首長他)でなければ、基本出ることは不可となる。
売名行為や他候補との公平性を考えて、である。

今年は都議会の話題が多く、議員の露出も多いが、来年の7月には都議会議員選挙だ。
ともなると、当然だが、都議会議員がマスコミに出ての丁々発止は、来年の1月半ば以降下火になるはずである。
本当はこうしたことこそ選挙の直前こそやるべし、だと思うが、その辺が融通の利かないところである。

しかも、人間ってゲンキンなもので、半年過ぎるとどんなにがんばっていた議員でも忘れ去られる傾向に。

一方で、こうしたことにも「例外」はあって、総理、大臣、市長等の「役職」があればそれは職務の一貫と捉えられて、そのまま出続けられる。なぜ議員がだめで、他が良いのか基準が曖昧だが、だからこそ、みんな大臣になりたがったりしたわけである。

ところが、最近では逆にテレビに出たり、名前が売れたりすることよる「リスク」も認識されるようになった。
実際、現職の官房長官や大臣が落選するケースが頻発するようになったのだ。直近の参議院選挙でも岩城光英法相や島尻安伊子沖縄北方担当相が落選した。
ある意味「悪目立ち」し、失言や失策が強調される。悪玉としてターゲッティングされてしまうケースもあるのだ。(実際の悪玉もいますが・・笑)
また、無名の政治家でもゲス不倫の宮崎氏ではないが、彼とて「イクメン宣言」をし、マスコミに出なければ、今もしれっと国会議員だったかもしれない。

いずれにせよ、小泉選挙以降、昨日書いた「カチマス」、また蓮舫代表のケース等を見ても、政治家や政党の広報戦略がますます重要となっているのは間違いないだろう。
「出る」「出ない」「出るならこれを言う」「これは言わない」
・・スピーチラーターもまともにいない業界も、いよいよ本格的な対応を迫られる時代となったことを実感する。

遅いけど(笑)

松本隆と宮沢賢治

毎朝毎夕、京急蒲田の自宅からJR蒲田の事務所までの蒲蒲線予定経路(笑)の道のりを、音楽を聴きながら歩く。

今朝はなぜか斉藤由貴のデビュー曲「卒業」だった。
1985年2月にリリースされたこの曲はご存知、松本隆、筒美京平のゴールデンコンビの作品だ。

斉藤由貴と言えば、ワタクシにとっては尾崎豊の・・(泣)
尾崎ファンだったワタクシとしては、勝手にライバル指定(笑)
まさに同世代なんだけど、クラスにいたら最も要注意人物の不思議ちゃんだよな〜とずっと思っていた。

数年前に復帰をした時には、年相応にふくよかになっていたが、
最近ではすっかり痩せて、往年の姿が戻って来ている。

・・と、斉藤由貴はどうでもいいのだが、
いや、改めて、「卒業」の歌詞の素晴らしさに泣く訳です。

制服の胸のボタンを 
下級生たちにねだられ 
頭かきながら逃げるのね 
ほんとうは嬉しいくせして

離れても電話するよと
小指差し出して言うけど 
守れそうにない約束は 
しない方がいい 
ごめんね

セーラーの薄いスカーフで
止まった時間を結びたい
だけど東京で変わってく 
あなたの未来は縛れない

セーラー服の「薄いスカーフ」で「止った時間を結びたい」
いやはや、松本隆、相変わらず、小道具が効いている。
で、2番以降をまともに振り返ることもなく、50を越えたワタクシだが、

駅までの遠い道のりを 
はじめて黙って歩いたね 
反対のホームに立つ二人 
時の電車がいま引き裂いた

わわわわ。
なるほど、これは「太田裕美」(「木綿のハンカチーフ」)と「ユーミン」(「消息」)を足して二で割った情景なのだ。

卒業しても友だちね 
それは嘘では無いけれど 
でも過ぎる季節に流されて 
逢えないことも知っている

卒業式で泣かないと 
冷たい人と言われそう 
でももっと哀しい瞬間に 
涙はとっておきたいの

卒業後のふたりの運命の結果を知ってしまった今となっては、
「それは嘘では無いけれど」の言葉が重いぜ。

「でももっと哀しい瞬間に 涙はとっておきたいの」
いや、ほんと、人生には卒業式よりもっと哀しい時がわんさとある。
3児の母となった斉藤由貴もそう実感しているに違いない(笑)

しかし・・・
この曲聞くと、戻るね〜 若かりし頃に。
すれ違う人は誰も築かないだろうけど、7、8分だけ、10代ですわ。
タイムマシン楽曲。
まるで、宮沢賢治と銀河鉄道(サハリン鉄道)に乗っている感じ?
・・と思ったら、
松本隆が宮沢賢治ファンで、同じように妹を亡くてしていることを知る。
なるほど泣
だからこそ、「さらば シベリア鉄道」なんだ。
この因果を、ご本人に直接聞いてみたいな。

2016年11月24日 (木)

「カチマス」が勝てない理由

昨日、民進党の国会議員37人でつくる野球チーム「民進カチマス」が23日、東京都内で初の試合を行った。

ニュースを見ながら、のけぞった。

山尾氏の「内助の功」発言に、だ。

さらに、今朝になって前原氏のTwitter(以下参照)が流れて来て、絶望的な気持ちになった。

そもそも、なんのための「カチマス」なのだろうか。

「党内融和」のアピールなら、別のところでやればよい。

マスコミがこれだけ来ているのであれば、民進党の掲げる政策や、与党との違いを示さなければもったいない。

「内助の功」…結果的にでも、打席に立った人を普通はそうは呼ばない。

そもそも、言わなくてよいことを、なぜ?

たぶん、深い意味はない。
だから、よけい罪深い。

リラックスした中で発言したからこそ、本音が見え隠れする。


世の中の感覚とズレていること、目指すべき社会像とも違うことに気がつかないと、政権どころか・・。


「全員野球」を掲げるならば、そもそももっとわかりやすい形での男女混合チームにすべきだったのかも。

ひととき前、「おにぎりマネージャー」は大きな話題になったが、

「マネージャー」職をアピールするなら、同様に女子だけでなく、男子のマネージャーもおくべきだ。

まあ、こういうことを書くと、「党内のバラバラ感をあおるな」と、また国体や選対からお叱りがくるかもしれない。

でも、それと、これとは違う。

ワタクシは政策論を言っているのだ。

民進党(民主党)の良さは、自由闊達に議論ができるところだった。

特に、社会の状況と乖離している所は、

きちんと指摘ができる土壌があった。

が。

選挙に破れ、縮小して行く中で、そういうことを指摘する人は内部に少なくなり、

私のような総支部長とて公認権を握られているから、弱い立場で発言する(勇気のある)人もいなくなって来ている・・ような(泣)

条件や環境の良い中で育ち、強い男性に庇護された範疇のみ女性は活躍できるが、それでも所詮「内助の功」要員。

「女性議員を増やす」と表向きには言っていても、結局、こう。

・・というふうに、とられかねないようなことは、やめようよ。

真に、全ての人が、それぞれの個性を生かしつつ、生きられる社会を。

「カチマス」がプレーを通じて体現しなければならないのは、そんなことなのではないだろうか。

ということを、ご本人に直接伝えようと思う。

もはや「男子球児+女子マネ」モデルは、選挙では通用しない。

「カチマス」が勝てない理由はそこにある、と。

以下、前原誠司氏Twitterより

昨日の試合で私は1度だけ打席に立ちましたがデッドボールでした。でもあれだけ大勢のマスコミ・カメラが注目したら、ストライクが入らないのは当たり前ですよね。私はマスコミがいなくても、なかなかストライクは入りませんが。私が対戦した投手を含め、投手陣は皆さんレベルが高かったです。(誠)

昨日の試合で、打のヒーローは参議院議員の森本真治さんです。ヒットを2本も打ち、内1本は唯一の得点となったタイムリーヒットでした。さすが準硬経験者です。可愛い息子さんの応援も、森本さん活躍の原動力になりました。(誠)

意外と言ったら失礼ですが、衆議院議員の篠原孝さんの野球センスの良さには感動しました。最年長の68才にもかかわらず、2度の打席とも芯でとらえ、1本はセンター前のクリーンヒット。ファーストの守備も難なくさばき、お見事でした。(誠)

昨日は先発投手が参議院議員の那谷屋正義さん、リリーフが衆議院議員の階猛さんでしたが、二人とも素晴らしいピッチングでした。1ー8で敗れましたが、2投手の自責点は0です。
階さんは東大野球部のエースだったので期待通りでしたが、那谷屋さんは59才とは思えない球速とコントロールで、4回を投げ抜かれました。あっぱれです。尚更、守備の練習が必要だと感じました。(誠)

山尾しおりさんには、マネージャーとして「内助の功」を発揮してもらいました。始球式を務めてもらい、また最終回には打席にも立ってもらいましたが、やはり彼女には華があります。山尾さんが打席に立った時、乗り出して応援していた5才の息子さんのキラキラ感が、たまらなく可愛かったです。(誠)

Twitterより

2016年11月19日 (土)

「落選中」の研究

先日、金子洋一前参議院議員が「選挙で落選すると議員はどうなってしまうのか(私の場合)」という一文をブロゴスに掲載されていた。http://blogos.com/article/198048/

http://blogos.com/article/198048/
落選生活4か月目にしての実感を書いていて、大変興味深く読んだ。
読みながら「いや〜、公認が出て、選挙区持ったほうが、実は日々の生活は大変になるのだ〜。真面目にやる人のみだが。政治活動と生活費を稼ぐ行為は金銭的には反比例になるんだよね〜」などと、金子さんに伝えたくなったりもした。

まあ、いずれにせよ、落選中の経済的な状況について、きっちり調査・研究したものってないのではないだろうか?
本来は政党がそうしたことをやって、人材をどう育成・維持していくのかを検討しなければならないと思うのだが。
ここらへんは、政治のありようとも関わって来る重要な側面だが、なかなか外に出難い部分でもある。

振り返れば、ワタクシの落選生活は10年に及ぶ(前夫4年+県議2年+衆議院4年)。
実に「人生の5分の1」は「落選中」(笑)
いや、正確には政治活動を自らはじめた25歳からだから、えっ?よもやの「人生の5分の2」だぜい!!
それでも生き抜いて来た自分を褒めたい(笑)おっと、その前に支えてくれた皆様(含・家族)に心からの感謝だが。

当たり前だが、落選生活を楽に続ける人はほとんどいない。

「無所属」が多く、闘い方が国政選挙とは違う、地方議員の落選の場合はまたちょっと別、ということも両方を経験して実感しているところだが、
冒頭にも書いたが、ひとつの誤解は、国政選挙の公認候補予定者となれば(経済的に)楽になる、ということだ。

はっきり言おう。
都市部の選挙区においては、党から支給される月々50万円では政治活動費は賄えない。
我が事務所で言うなれば、事務所費(家賃・光熱費・駐車場代)に人件費一人分で終了。
当然ながら、まっとうな活動をしようと思い、選挙における「定石」を打とうと思ったら、秘書ひとりだけでは限界がある。(365日・24時間闘える、ブラック状況なら可能かもだが)

都市部であれば、人件費はフルタイムひとり増えるごとに20万〜30万円プラス。(これももっと安いところはたくさんあるだろうが、雇用環境改善を訴えるものとして、それはしてはならぬと思っている)
ポスター代はA1サイズ1000枚で約20万円。全戸ポスティングをやろうと思ったら、17万枚刷って印刷費が40万円。ポスティング代は一枚3.3円、56万円。つまり一回100万円仕事である。
もちろん、ボランティアを募ったり、費用をかけないでやろうという努力もして、である。
が。印刷費をケチり、ポスターを安いところに頼んだら、あっという間に色あせて、裏貼り費用や張り替えメインテナンス費用が余計にかかったりと、痛い目をみながら、試行錯誤を繰り返している、というのが現状である。

一方で、対抗しなければならない現職議員は、公費で賄える秘書が3人いる。そもそも、それだけでも年間3000万円ぐらいの差が出る。
文書交通通信費も月額100万円。
つまりは現職と挑戦者では年間4000万円以上の活動費の差がある、ということだ。この数字は現職議員所属の党からの支給を考えずに、だ。実際にはもっともっと差があるだろう。

日々、先輩議員や後援者等から「もっと、人を雇って、ガンガン攻めろ!」と言われるが、ない袖は触れない。

が、シノゴノ泣き言を言っている暇はない。
党の「予調」が行なわれ、数字が悪ければ公認を外される可能性もあるから。となると、国政選挙の場合は、立候補できる可能性がグンと減る。
街宣をし、人に会い、会合に出て、ポスティングやポスターなども出来る限りがんばらなければならない。
自らが街宣カーを運転し、旗をたて、がんばる。今は、それでしのぐしかない。

一方で、党から支給される分を越えた、毎月50万〜100万円の赤字分を確保するために、選挙区内外を問わず、日々走り回らねばならない。やりたいことがあれば尚更、金集めが重要な活動となる。
政治献金やパーティ(ご協力をいただいているみなさま、本当にありがとうございます😭)のお願いをさせてもらうた、当然ながらそれでは追いつかず、自己資金を投入することになる。

ちなみに上記は生活費を一切考慮に入れていない分だ。
実際にはこの他に、家賃、食費、子どもたちの学費等々の「生活費」がかかって来る。
夫がいても子どもが5人いる生活。
政治活動費以外に、ワタクシが担当しなければならないのは大学の学費二人分を含めて、年間600万円あまりである。

しかーし。
いずれにせよ、政治活動(でも資金繰り)をしながら、別途月50万円稼ぐのは並大抵のことではない。

最もよくあるパターンは、落選後、与党・野党問わず許認可系の企業に「就職」する、もしくは「委託契約」系で「仕事」をするというもの。企業はその辺の事情を心得ている。もちろん、人材に関するセレクトは将来的な益を考えてのことであろうことは容易に想像できるが、勤務実績等々、つつかれても大丈夫なよう自衛している。
残念ながら?ワタクシにはそうしたお声はかからないが、

落選中の立場で言えば、そんなオファーがあれば、相当にありがたいと思って飛びつく人がいるのも、わからないではない。
ただ、(企業にとっての)将来性を見込まれた「使える人」は生き延びることができるが、果たしてそれで良いのかという心の引っかかりはどこかで残る。

そうした懸念のない生活が唯一できるのは、国政選挙を目指す地方議員だけであろう。
やること、一緒だから(笑)
2009年の衆議院選挙では心ゆくまで活動が出来たのは、ワタクシが県会議員であったからだと、実感している。
政務活動費での広報も、実質的にはアピール効果もあるわけで、一石二鳥部分が相当ある。

もちろん、自分で会社を経営したり、不動産収入があったり、親から引き継いだ莫大な資産がある、という場合は別だ。(にしても、資産を減らすことになってしまうのだろうが)

日本の政治業界は、新規参入が難しいとされてきたが、55年体制の崩壊以降はそうでもなくなった・・ように見えても、結局は2世、3世オンパレードという状況が変わらないのは、「落選中」を支えるシステムがないからなのだと思う。

薬局でアルバイトをし、化粧品の新作発表会やエステの勉強をしたり、
家庭教師や塾で教えたり、派遣で事務をやったり、
思えばありとあらゆることをやった「落選中」。

結局、時間と場所を選ばない「モノカキ」となって、
ナントカしのいでいるが、
最近、ついつい活動を文字数に換算するクセがついてしまった。

おっと・・こんな無料の文章書いている暇ないんだがね(笑)

「『落選中』の研究」なるノンフィクションでも書いたら、開高健賞とれるかなあ???

2016年11月15日 (火)

日本では「トランプ現象」はしばらく起こらない?

東洋経済オンラインに「『トランプ現象』は、いずれ日本でも起きる」との記事が掲載されている。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161115-00145121-toyo-bus_all

「格差社会の広がりが、最終的には政治分野にも「『エスタブリッシュメントによる大統領の独占』に対する危機感」同様のことをもたらす、のではないか、という内容だ。

立場的に言えば、それを期待したいと思いながらも、
残念ながら、ワタクシはそうは思わない。

「トランプ現象」は日本ではしばらく起こらない。
「百合子現象」は起きても(笑)

以降、縷々、その論拠を示して行きたい。
基本的にはこの6つだ。

①国のトップの選ばれ方の違い 大統領制と議院内閣制  
②地方政治では既に「プチトランプ現象」は起きている
③「毒」は「毒」を持って制する 「家柄」への奇妙な信頼感と「戸籍」
④ 今や美味しくない「政治の仕事」
⑤ 橋下徹氏が闘う、『』つきの『既得権益
⑥ あるとすると自民党が相当に傷んだとき

①国のトップの選ばれ方の違い 大統領制と議院内閣制 
日本の総理大臣は、国民の直接投票では選ばれない。
もちろん、選挙で第一党となった政党のトップが首班指名を受け総理大臣になるのだが、選挙時はそうであっても、政治的転換が必要となった時には「解散」ではなく「内閣総辞職」で総理大臣が生まれる。
日本としては珍しく、久しぶりの政治的エリート家庭以外に育った菅直人総理大臣、野田佳彦総理は選挙で選ばれた総理大臣ではない。あくまで民主党内の選挙に勝っただけで、民意を十分に反映したかどうかはわからない総理である。
旧くは田中角栄総理もそうである。4年に一度、大統領を選ぶ代議員を選出すると言う形で国民が選挙権の行使をしながら、トップが誕生するアメリカとはかなり形が違う。

②地方政治では既に「プチトランプ現象」は起きている
一方で「首長」選挙は、ダイレクトに代表を選ぶ選挙だ。代議員ですらない。任期が決まってるのも大統領制と同様だ。
となると「百合子現象」は起きる。
国政では保守的な選択をする人も、首長選挙では別の候補に入れる、というある種バランスを取ったことが可能である。
ワタクシが育った40年前の宮城県・仙台市では、知事はド・保守、市長は社会党・革新という絶妙な選択によって、市民にとっては居心地の良い高福祉が実現していたと思う。(しかし、その後の選手交代により汚職等が起こったことは、検証・研究の余地があると思っている)
「百合子現象」を見るまでもなく、実は、地方では「プチトランプ現象」は起こっているのだ。
橋下徹氏の大阪府・大阪市はもちろん、あちこちで、地元の名家出身が長いこと占めて来た政治に対するアンチテーゼは起っている。
(もちろん、一方では固定化されたところもあるが)
国政選挙とのバランスの中で、ちょっとした「ガス抜き」は地方政治でできるのである。

③「毒」は「毒」を持って制する 「家柄」への奇妙な信頼感と「戸籍」
格差社会が進む以前から、ある特定の「政治一家」が権力を握り続けることに不満がなかったわけでなない。
しかし、その際、それまでの権力に対して抵抗勢力として期待を担うのは、これまた「名家」出身の人だったりする(笑)
細川氏しかり、鳩山氏しかり。
まさに「毒」は「毒」を持って制す、である。
今回の福岡6区の補選を見ても、「知らない人より、知ってる(と思っている)人」のほうが安心感があるのだろう。まあ、名家出身の方が「悪いことをしたとしてもその程度がわかっているから」という安心感が逆にあるような気もする。
名家への信頼は別に日本に限ったことでなく、ヨーロッパ等でも、かならず「ハンガリー・オーストラリア帝国の末裔」とかが出てくる(笑)その理由は古き良き時代への回顧、つまりは「夢よ再び」プラス上記のことに帰着するような気がする。
「『アンクル・トムの小屋』とトランプ大統領のアメリカ」でも書いたが、その背景には差別と偏見が未だ解消されていない、むしろ深層では固定化されて現実がある。「白人」「男性」等いう「生まれながらの優越性」が具現化されず、不満を持っている層も含めて、いずれにせよその所在が誰にでも「分かりやすい」のである。
ところが日本の場合、その可視化は難しい。今回のことで、さまざまに文献を読んでいる中で気がついたのは、日本の場合は「だからこそ戸籍が必要」だ(った)、ということである。
逆に言えば、田中角栄ではないが「今太閤」的な新たな価値付けができればだが、その「今太閤」でも目指すは既存のエスタブリッシュメント。親が築いた人脈や地盤で子孫の生活を保障しようとすれば、一瞬の反撃はできたとしても、結局は同じ穴のムジナになる。
この辺についてはまた別のところで論じたい。

④ 今や美味しくない「政治の仕事」
日本の政治が抱える問題点のひとつとして、よっぽどモノ好きでなければ政治の世界で長く行き続けることが難しいということだ。
特に最近では、過去には情報を握ることによってコントロールできていたであろう利権構造もなくなり、仕事をすればするほど資産は減る、ということになりかねない。選挙も大変だ。政党から振り込まれる交付金だけでは到底賄えない。つまりは余裕のある人しか、自腹の切れる人しか、政治家として活動をし続けることはできない。小選挙区になって、当落が簡単にひっくり返るリスクが高まれば尚更、である。
また政治の世界で物ごとを計るスケール=価値観は、一般社会とはかなり違う。そうしたことを受け入れられ、持ち続けるには、家族も含めて、ある種の慣れが必要となる。
小選挙区制の導入や、公募等も含めた政治文化の変化は若い世代は非・二世議員の新規参入を可能にしたものの、逆の結果をもたらすものとなる可能性を持つというは皮肉である。

⑤ 橋下徹氏に見る「既得権益」のターゲットゾーン
地方政治において、橋下徹氏の登場はある意味「トランプ現象」を先取りしたものだったかもしれない。
多くのに人々が橋下氏に夢中になったのは、彼が今まで「タブー」とされたものと対峙したからである。
が、闘ったのは時の「権力」ではなかった。「公務員組合」や「弱者」の、『』つきの「既得権益」だったのである。
ここもまた書くと長くなるので、ひとつだけあげるとすると、
橋下氏の登場で公務員系「組合」の選挙に対する取り組みの度合いが格段に落ちたということを指摘しておきたい。
それまでは選挙となれば組合の選対が独自に立ち上がり、人とモノの集中投下を行ない、ガッチリとサポートして行く、というのがある意味当たり前だった。
が、「橋下以後」は風景が変わった。まさに、ロックオン、である。
「トランプ大統領のアメリカ」が政治的エスタブリッシュに対しての対抗と同時に不法移民等に対して厳しい態度を示していることと対称して見れば、その差はさらに際立つ。
『』つきの既得権益の打破だから、最終的にはエスタブリッシュの否定には行き着かない。むしろ、違う形で「エスタブリッシュ」に組み込まれて行く可能性がある。

⑤あるとすれば自民党が相当傷んだとき 
ここが一番重要だが(笑)トランプのような候補が登場しても、今現在であれば、野党側にはそれを支える政党はない。
小泉純一郎総理が誕生した時のように、自民党が相当に痛み、うちなる改革として、という形しかないように思う。それでも田中眞紀子がそれを支えたことを見ても、エスタブリッシュメントへの憧憬は残るのだが。

こうしてみると、記事の著者が指摘するような、日本が政治の世界においてはアメリカの「周回遅れ」でアメリカ政治を踏襲して行くという形態は取っていないことが分かる。
むしろ、4年に一度のルーティンでの変化よりも、国政や地方ではこきざみな「プチトランプ現象」を続けながら、前進したり、後退したりを続けている。
だからこそ、政権交代を経たとしても、大きな方向転換にはいたらなかったかもしれない。

実は、それこそが日本政治の独自性、強みでもあり弱みでもあるのである

2016年11月14日 (月)

非色

「自由」と「平等」という、少なくとも自分の周りで普遍的価値だろうと信じているものが、薄まったかに見えても血管の中に走り続けている「偏見」や「差別」といった、結果的には自らをもおとしめるであろうものを根絶できないのは、なぜか。

有吉佐和子の「非色」(角川文庫)を捲る。1964年の作品。
それから50年経って、アメリカも日本も世界も、前進したようで結局は変わらぬ立ち位置にいらだっているような気がする。

日沼倫太郎の解説は秀逸だ。

「金持ちは貧乏人を軽んじ、頭のいいものは頭の悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮らすものは昔の系図を広げて成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだといい、美人は不器量なものをあわれみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりもなんらかのかたちで以下のものを設定し、それによって自分は優れていると思いたいのではないか。それでなければ落ち着けない、生きて行けないのではないか、と有吉氏は言う。人種差別の感情もそれとおなじことで、アメリカ人はユダヤ人やイタリア人を、ユダヤ人、イタリア人はニグロを、ニグロはプエルトリコ人を軽蔑する、そしてそのプエルトリコ人にあくがれ(原文ママ)を抱いてアメリカに渡ったのが日本人ではなかったのか、と。
あらゆる存在、あらゆる登場人物たちはこうして相互に否定し合い、事実又否定される。純正白人の看護婦はユダヤ人教授を、人種差別問題に関心の深いアフリカの知識人は黒人妻をといった風に、無限否定の環が登場人物たちをめぐってつながれる。
飽くなき相互主義の目によって描かれているといったのも、そういう意味においてなので、だから登場人物たちは誰ひとりとして絶対化されない。したがって作品世界も閉じられていると同時に開かれている。これが「非色」なのだ。」(「非色」有吉佐和子 角川文庫 解説P415)

「以下のもの」と「帝国の回路」はつながる。
そもそも人の優越など、その基準さえ単純ではなく、複雑で、
本来は判別不可能なものだろうが、それを極力分かりやすく単純化したものが「白人」「男性」で、そこに「血脈」「地脈」も加わる。
あほらし、と思いながらも、超えられないのは、自分も「環」の中に入り込んでいるからなのか。

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