2018年10月20日 (土)

不思議すぎる無戸籍者解消「有識者会議」

10月18日、無戸籍者解消を目指し、民法改正を視野に「有識者会議」の第一回会合が行われた。

不思議なのは、ここに、無戸籍当事者の実情を知っている人が誰一人入っていない、ということだ。

無戸籍にはさまざまなケースがある。学者や弁護士は当然だが必要だ。しかし、具体的実例を少なくとも50件以上はやり、法的なバグを知っていないとこの問題には対処できないと思う。

そもそもここ15年の審判や判決の実例をどれほど法務省は集めているのであろうか?
それで「無戸籍ゼロ」にできる法改正ができるのであろうか?

「有識者」から当事者や支援団体、それを支える弁護士等、この問題に関して最も「有識者」と思われる人々を入れることを恐れるにはどんな理由があるのか?

しかもこの会議では生殖補助医療で生まれた子についての法整備についても話すという。そこは基本、無戸籍とは関係ないのに、だ。
(ワタクシが扱ったケースでも生殖補助医療と無戸籍は性同一性障害で夫が性別変更をした後、婚姻。妻が出産したケース以外、扱ったことはないし、聞いたこともない。ここで話す程に「無戸籍」としての例があったということなのか、法務省は数値をあげてほしい)

は母と子にも「嫡出否認権」を拡大するよう法改正するような方向で考えていると報じられているが、それが効果がないとは言わない。しかし「限定的」であるのは誰もが指摘するところである。

まずやらなければならないのは「離婚後300日」「婚姻後200日」といった、明治時代からのナンセンスな「推定」を撤廃することだ。
それに踏み込まなければ、有識者会議など意味を持たない。

無戸籍問題は2007年の一部改善から10年以上が経ってが、減ることはない。
結局、抜本的なところに手をつけなければ変わらないということだ。

母子の「嫡出否認」は一歩ではあるが、残念ながら「抜本的」なことではないのは、「有識者」は当然わかっているはずだと思う。

なんのための「法改正」なのか。
これで「無戸籍ゼロ」にできなかったならば、誰が責任をとるのであろうか?

人の一生がかかっていることだということを、
新しい大臣を含めて、認識してほしいと切に願う。

カウンターの「有識者会議」を立ち上げるかな。
うん。

2018年10月11日 (木)

実年齢より若い役を演じる、ということ

「万引き家族」の安藤サクラ氏の演技力の高さに感服した。

私と友人は、上映後しばらく、会う度にサクラ氏のマネをした。
片手の指の間を広げて涙を拭う、あのシーンだ。
私のモノマネは友人の足許にも及ばなかった。全く歯が立たない。
サクラ氏への尊敬が足りないのか。

そんな友人が昨日、憤慨して言った。
「自分より若い女性を演じるのに、あの演技は酷い」
今月から始まったNHKの朝ドラ「まんぷく」のことだ。

同感だ。なにあれ。
ひとしきりその話題となった。

俳優が実年齢より若い役を演じる場合、なぜ、「何も考えていない」「無垢な女」を演じようとするのか。それで「若さ」を表現しようとするのは、単細胞過ぎる。
「女性への冒涜のような気さえする」
友人は真顔で言った。

だよねー。
だって、私たちは知ってるじゃん。
「若い」ってもっと邪悪で狡猾で、残酷。

そのまっすぐさは「愚鈍」や「無知」とは違う。


まあ、朝ドラで求められるのは実態ではない。「大多数が安心する姿」なのかもしれないから、顧客満足度は高めているんだろうな。

が、少なくとも、ワタクシと友人ははサクラ氏を信じていたのだ。

そんな予定調和をぶっちぎって「怪演」してくれることを。
サクラ氏に限って、そんな初歩の初歩、「コモド騙し」(実際は「おっさん騙し」か)のような演技はしないのだと。

ショックだった。
毎日見せられるオープニングも辛い。

なぜ、森の中をあんな大股で?ある意味「衝撃映像」。

当然ながら、1回見て友人は見るのをやめたという。

さて、ワタクシはどうするかな。

怖いもの見たさ。

今後、面白く展開していくかも、という期待も込めて、オンデマンドでフォローかしら。

オープニング飛ばしで。

2018年9月30日 (日)

「半分、青い。」は朝ドラの王道だった!

「半分、青い。」痛々すぎたのに最後まで見続けることができた理由

現代ビジネスに寄稿しました。
な、長っ(^_^*)
おしんと鈴愛、橋田壽賀子氏と北川悦吏子氏の比較から、実は「半分、青い。」は朝ドラ王道だった!!ということも⭐︎

2018年9月29日 (土)

「半分、青い。」終了によせて

「半分、青い。」が終わった。

脚本の北川悦吏子氏は「朝ドラ」の時代的役割をどう担ったのか。

という趣旨で、小論を書きました。
近々、公開の予定。
その前に、ぜひ!振り返りも

2018年9月28日 (金)

迷走する「半分、青い。」と ・・・。

昨日深夜。息も絶え絶えで仙台の姉の家に辿り着く。
疲れているわ、ワタクシ。

「あ、『半分、青い』、読んだよ。」

唐突に姉が言う。

「でもさ、鈴愛ちゃんよりあんたの人生の方がよっぽど『迷走』しているよ。
私はあんたの免疫あるから、あの程度は十分ありかな、って思う」(by姉)

信用金庫→(上京)→漫画家→100円ショップ→(帰郷)五平餅屋→(上京)五平餅屋台→発明家→扇風機開発

これより波瀾万丈な人生って一体・・。

「まあ、あんただけじゃなくてさ、だいたい『半分、青い』を『迷走』って言う人にかぎって人生迷走傾向があるんだよね。面白いよね。」

そ、そうなの?
着実、地道に人生を歩む姉のような人は「特に違和感なし」らしい・・。
「そもそも、ドラマにそこまで求めてないから。」

えーーー。

「エースをねらえ!」ごっこも「ベルサイユのばら」ごっこも一緒にやったじゃん。
「この道」に誘ったのは姉ではないのか?
ワタクシはひとり置いてきぼり??

さて、その「半分、青い。」も明日が最終回。
あ、それもあるのかな、この疲れ(笑)

2018年9月27日 (木)

「半分、青い。」終了で‘ほっとする’人々

「半分、青い。」が(ようやく)終わる。

もはや、痛々しくて見ていられない。いや、だからこそ見続けている、ともいえる。
 ある意味、最後まで見届けることが自分の使命とさえ思うというのは、まるで「ケア」の視点、「見取り」の情・・。  
「半分、青い。」の後半戦、「つまらなくなった」の声にも関わらず視聴率が落ちなかった理由はその辺にあるのではないかと思う。
(中略)
そこで気がつくのは、「半分、青い。」が折々にふれて見せる「死生観」、そしてそれにつながる「再生」が実はこのドラマの芯=テーマであり、逆にそここそが視聴者が抱く違和感にもなっている、ということだ。
なにせ、そもそもナレーションは亡くなった鈴愛の祖母。
毎朝、私たちは死者の声を聞かされていたということ。
鈴愛風に言わせてもらうなら「スピリチュアルか?恐山のイタコか?」となるだろう。
ただ、それにしても「伏線」が見当たらない。
見ている側は「取り残される」のである。
と、言うわけで
思わず「半分、青い」の総括を書いてしまった。
上はほんのさわり。
全文はまた別途。長文になってもうた・・。

2018年9月24日 (月)

「半分、青い。」と震災

「半分、青い。」
逃げたな、と思う。

視聴者の多くはあの震災を経験している。
だからこそ、少なくとも、言葉にリアリティが必要だというのに、この臨場感のなさはなんだ。

「仙台」と出てくる度に、故郷がこの素っ頓狂なドラマのつじつま合わせに利用されている気さえする。

災害や死を描いたものを語るのが難しいのは、
時に作品への批判自体が、寄り添う心や悼みの気持ちがないかのような批判へとすり替わってしまうことがあるからだ。
違和感を感じてもそれを飲み込ませてしまう圧のようなものがある。

あと5日でどう着地させるのかわからないが(ネタバレでは出ているが)、
別途、改めて2018年4月〜9月にこのドラマが朝ドラになった時代的背景と意味を考察したい。

2018年9月22日 (土)

「新潮45」が二度目の大炎上で大きく失ったもの

「新潮45」が二度目の大炎上で大きく失ったもの と題した小論を現代ビジネスに寄稿しました。

新潮社は雑誌が完売するまでなんら対応せず、4日後の金曜日になって声明を出した。3連休前に、というのも姑息さを感じる。

新潮社がやらなければならないのは、偏見と無知に満ちた8月号、10月号が発刊された経緯を検証、そして杉田氏自身の言葉を掲載することではないか。
起点は杉田氏だから、彼女自身が回収しなければことは収まらない。

2018年9月18日 (火)

「そんなにおかしいか 「杉田水脈」」論文」で「新潮45」がやるべきこと

「新潮45」。
「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」。
「新潮45」編集部がこの号でやらなければならなかった

のは、杉田水脈氏ご本人の、一連の抗議行動、特に杉田氏

の前号を受けての批判論考に対しての論説を載せることだ

ったのではないか。
八幡氏、松浦氏の論説の中に、ワタクシが関わる部分が出

てくるので、そこは改めて別稿として。

Photo

2018年9月10日 (月)

ナオミとセリーナが示したもの

テニスの全米オープン。
大坂なおみ選手の勝利に心からお祝いを申し上げたい。
大坂選手は日本人じゃない、という人は、自分を恥じるべきだ。
血縁主義を取る日本において、彼女は日本人である。
(今後国籍選択を迫られる。私は重国籍は容認すべきであると常日頃から主張している)


ただ、それがどうした、である。
多文化の背景を持つ彼女は、ひとつの国に留まらず、人生を謳歌する自由を持つ。

素晴らしいことだ。それを応援したいと思う。


突然「我慢」は日本の文化等言う人にもため息が出る。
少なくともそれを教えたコーチと父はいずれもドイツ人でありハイチ出身のアメリカ人。良きものは全て日本に起因するものとするには無理がありすぎる。

さて、報道もされているが、セリーナ・ウイリアムズの荒れぶりは尋常ではなかった。

ペナルティは「女性差別」。
今まで男性プレイヤーが同様の抗議をしてきたが、見過ごされて来たのに、今回だけ厳しくするのはそこに性差別があるから。男性と女性でジャッヂが違うのはダブルスタンダードである、というのがセリーナの主張であろう。

となると、テニス界では女性選手のみに対してこうしたペナルティが行なわれている現状があるのだろうか?

今回セリーナがそう感じたのであれば、当事者でなければわからない何らかがあったのかもしれない。キャットスーツが使用不可となったというニュースも以前流れていたが、そこからのモヤモヤが爆発したのかもしれない。

ただ、男性が見過ごされているからと言って、ルールを破っていい、彼らもやっているから大丈夫。どうせ何も起こらないと違反を続けているのはどうかなとも思う。

もしその違反が取るに足らないものならば、ルール改正を尾止めるべきである。
もしかすると、セリーナが以前からこうしたことに対しての抗議や啓発活動を行なっているので、そうであれば、なおのこと自分でやってはいけないと思う。

確かなのは、今後、同様の抗議を行なった時の判断として、今回の処分が基準になるだろうということだ。
男性選手にも、女性選手にも。

そういう意味では今後に影響を与える転換点になる試合だったのだと思う。

そして、大坂選手の登場により、パワーテニスから新しいフェーズに入ってことをセリーナが誰よりも認識しただろうことも想像に難くない。

今後のふたりの対決も楽しみである。

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