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2016年11月

2016年11月30日 (水)

「My first 政治献金♥️」

落選すると、周囲から言われることのまず第一は、
「地元活動に『専念』せよ」ということ。
「地元活動」とは街頭宣伝活動、戸別訪問活動(=公職選挙法で禁止されているが、実質はそれと同様のことを行なっている。これまた「本音と建前」が違う法律、)自治会等の集会や、神社等の祭り他の会合に顔を出すことだ。
あちこち会合をはしごし、「地域事情(=人間関係&自分の支援者になり得る人がいるか)」をリサーチがてら、そこに集う不特定多数の人に売名する(←重ねて言うが、禁止だけどねっ)との二つの目的を持ちながら、せっせと地域を歩くのである。

ま、と言っても祭りも集会も24時間やっているわけではないから、ボチボチ、なのだが、3巡目ぐらいから微妙な葛藤が心の中に生まれる。

同じ人の間をグルグルしていないか?

地域活動に参加をする人と言うのは、基本、PTAでも、自治会でも、祭りでも中心になって活動しているから、「述べ回数」で数えればかなりの人数と会っていても、グロスでみると以外に少ない、という現実に向き合うのである。

一方で「地域活動」の範囲は当然ながら、基本選挙区内。
しかーし、老若男女、議員を目指そうとする者が、どこからもお声がかからず、その地域だけで24時間過ごすと言うのは、かなり不健康、というか、ちょっと待て!他から声がかからんのか?ん?暇なん?って話にもなる。

この間も秘書と笑ったのだが、30年ポスター貼りをしているから、どの壁にはどの手法で貼付けるのがいいのか、一瞬で読み取れる能力は身に付いたが、それはワタクシの議員としての資質の、一体何に資することなんだろうか。自分でも甚だ疑問である(笑)

つまりはそこにかけた時間は当たり前だが、自己の能力を向上<支持車拡大。
しかし、それでいいのかと言う疑問もある。だからこそ、利権政治家みたいな者しか生まれてこないのではないか、と。

『専念』の度合いを計るのは本当に難しい。
有権者を軽視しているわけではないが、わかりやすい表現で言えば、ワタクシは例えば「第二の松原仁」になりたいわけではない。
つまりは「どんなところにも行って、顰蹙買いつつ名刺を渡して、でもなんだかんだ言って勝つ」という松原仁モデル(笑)=旧来型の選挙必勝モデルから、違う形で勝つモデルを作ってみたいなと思っている。
それは、ワタクシが母だから、女性だからという、男性政治家にはたぶんない、もしくはあっても数も高さも違ういくつものハードルを跳ばないとゴールには行き着けないと言う環境の違いもあるが、(松原仁には物理的になれない)
政治家の落選中の過ごし方を変えることで、政治家としての資質を持ちつつも、辞めざるを得ない人々を留まらせ、結果今より質の高い政治が可能になるのではないのかと思っているからである。

「My first 政治献金♥️

昨日の政治資金パーティで嬉しかったのは、今まで全く政治家を応援する活動をしてこなかった人が、こう言って、献金してくれたことである。

「する」と「しない」は大きな違いである。

彼女の初体験の相手はワタクシ。
嬉しい、と同時に、誇りでもある。

2016年11月29日 (火)

「保守本流」ファンタジー

産經新聞の記事。

http://www.sankei.com/premium/…/161129/prm1611290006-n1.html
民進党内で「保守本流「リベラル保守」の騎手争いが激化しているそうな。
確かに、ずいぶん前から「宏池会」を目指すべし、みたいなことを言う人々は多かった。
まあ、今回の玉木君の動きは別として、
大平正芳、石橋湛山・・等々、過去の政治家について学ぶことは大切だが、彼らの名前を錦の御旗に、その権威を利用して、目指すべき政治の「ファンタジー」を作る手法はくれぐれもやめてほしいなと思う。


それじゃ坂本龍馬好きな「維新」と変わらないから。


風呂敷のマントを被った瞬間、仮面ライダーよろしく、正義の身方になった自分に惚れ惚れ、という男子をついつい思い浮かべてしまう。


(特に)民進党(に集う人々)は、政治好きな人々が陥りがちだったこういう「幼稚さからの脱却」、そして「過去の政治家の誰もが対峙することがなかった事態に向き合っていることに対しての自覚」こそが求められているということに、もっと真摯に向き合わなければならないと思う。

代表の自宅や家族を公開することも悪いことではないのかもしれない。

が、同じ東京の中で、区内の貧困格差が最も大きいとされるところで格差解消や子どもの貧困対策を訴えている身としては、これはちょっと、無神経なのではないかとついつい思ってしまう。
党がどこまで真剣なのか、「想像」でなく「現実」の問題として本当に受けとめているのか、国民はそこに「リアリティ」があるかどうかで見極めようとしているのではないか。

な〜んてことを、「石橋湛山」の直系後輩(笑)のワタクシは思ったりする。
「石橋湛山」は戦時中、印刷機を持って疎開して、雑誌を出し続けたが、ワタクシもその気分。
「こっそり書いて」「誰かに届くといいな」と思っている(笑)

まあ、「湛山」を目標とするなら、まずは「高橋亀吉賞」取ろうぜ!!
あ、賞、休止中だった(笑)

2016年11月25日 (金)

選挙と露出

「選挙はいつですかね?」
たとえばテレビや新聞等、マスメディアに出る際、必ず聞かれるのが選挙の時期である。
地方議員でも国会議員でも、政治活動者であっても、当該選挙の半年前以降は、特別な役職(総理、大臣、首長他)でなければ、基本出ることは不可となる。
売名行為や他候補との公平性を考えて、である。

今年は都議会の話題が多く、議員の露出も多いが、来年の7月には都議会議員選挙だ。
ともなると、当然だが、都議会議員がマスコミに出ての丁々発止は、来年の1月半ば以降下火になるはずである。
本当はこうしたことこそ選挙の直前こそやるべし、だと思うが、その辺が融通の利かないところである。

しかも、人間ってゲンキンなもので、半年過ぎるとどんなにがんばっていた議員でも忘れ去られる傾向に。

一方で、こうしたことにも「例外」はあって、総理、大臣、市長等の「役職」があればそれは職務の一貫と捉えられて、そのまま出続けられる。なぜ議員がだめで、他が良いのか基準が曖昧だが、だからこそ、みんな大臣になりたがったりしたわけである。

ところが、最近では逆にテレビに出たり、名前が売れたりすることよる「リスク」も認識されるようになった。
実際、現職の官房長官や大臣が落選するケースが頻発するようになったのだ。直近の参議院選挙でも岩城光英法相や島尻安伊子沖縄北方担当相が落選した。
ある意味「悪目立ち」し、失言や失策が強調される。悪玉としてターゲッティングされてしまうケースもあるのだ。(実際の悪玉もいますが・・笑)
また、無名の政治家でもゲス不倫の宮崎氏ではないが、彼とて「イクメン宣言」をし、マスコミに出なければ、今もしれっと国会議員だったかもしれない。

いずれにせよ、小泉選挙以降、昨日書いた「カチマス」、また蓮舫代表のケース等を見ても、政治家や政党の広報戦略がますます重要となっているのは間違いないだろう。
「出る」「出ない」「出るならこれを言う」「これは言わない」
・・スピーチラーターもまともにいない業界も、いよいよ本格的な対応を迫られる時代となったことを実感する。

遅いけど(笑)

松本隆と宮沢賢治

毎朝毎夕、京急蒲田の自宅からJR蒲田の事務所までの蒲蒲線予定経路(笑)の道のりを、音楽を聴きながら歩く。

今朝はなぜか斉藤由貴のデビュー曲「卒業」だった。
1985年2月にリリースされたこの曲はご存知、松本隆、筒美京平のゴールデンコンビの作品だ。

斉藤由貴と言えば、ワタクシにとっては尾崎豊の・・(泣)
尾崎ファンだったワタクシとしては、勝手にライバル指定(笑)
まさに同世代なんだけど、クラスにいたら最も要注意人物の不思議ちゃんだよな〜とずっと思っていた。

数年前に復帰をした時には、年相応にふくよかになっていたが、
最近ではすっかり痩せて、往年の姿が戻って来ている。

・・と、斉藤由貴はどうでもいいのだが、
いや、改めて、「卒業」の歌詞の素晴らしさに泣く訳です。

制服の胸のボタンを 
下級生たちにねだられ 
頭かきながら逃げるのね 
ほんとうは嬉しいくせして

離れても電話するよと
小指差し出して言うけど 
守れそうにない約束は 
しない方がいい 
ごめんね

セーラーの薄いスカーフで
止まった時間を結びたい
だけど東京で変わってく 
あなたの未来は縛れない

セーラー服の「薄いスカーフ」で「止った時間を結びたい」
いやはや、松本隆、相変わらず、小道具が効いている。
で、2番以降をまともに振り返ることもなく、50を越えたワタクシだが、

駅までの遠い道のりを 
はじめて黙って歩いたね 
反対のホームに立つ二人 
時の電車がいま引き裂いた

わわわわ。
なるほど、これは「太田裕美」(「木綿のハンカチーフ」)と「ユーミン」(「消息」)を足して二で割った情景なのだ。

卒業しても友だちね 
それは嘘では無いけれど 
でも過ぎる季節に流されて 
逢えないことも知っている

卒業式で泣かないと 
冷たい人と言われそう 
でももっと哀しい瞬間に 
涙はとっておきたいの

卒業後のふたりの運命の結果を知ってしまった今となっては、
「それは嘘では無いけれど」の言葉が重いぜ。

「でももっと哀しい瞬間に 涙はとっておきたいの」
いや、ほんと、人生には卒業式よりもっと哀しい時がわんさとある。
3児の母となった斉藤由貴もそう実感しているに違いない(笑)

しかし・・・
この曲聞くと、戻るね〜 若かりし頃に。
すれ違う人は誰も築かないだろうけど、7、8分だけ、10代ですわ。
タイムマシン楽曲。
まるで、宮沢賢治と銀河鉄道(サハリン鉄道)に乗っている感じ?
・・と思ったら、
松本隆が宮沢賢治ファンで、同じように妹を亡くてしていることを知る。
なるほど泣
だからこそ、「さらば シベリア鉄道」なんだ。
この因果を、ご本人に直接聞いてみたいな。

2016年11月24日 (木)

「カチマス」が勝てない理由

昨日、民進党の国会議員37人でつくる野球チーム「民進カチマス」が23日、東京都内で初の試合を行った。

ニュースを見ながら、のけぞった。

山尾氏の「内助の功」発言に、だ。

さらに、今朝になって前原氏のTwitter(以下参照)が流れて来て、絶望的な気持ちになった。

そもそも、なんのための「カチマス」なのだろうか。

「党内融和」のアピールなら、別のところでやればよい。

マスコミがこれだけ来ているのであれば、民進党の掲げる政策や、与党との違いを示さなければもったいない。

「内助の功」…結果的にでも、打席に立った人を普通はそうは呼ばない。

そもそも、言わなくてよいことを、なぜ?

たぶん、深い意味はない。
だから、よけい罪深い。

リラックスした中で発言したからこそ、本音が見え隠れする。


世の中の感覚とズレていること、目指すべき社会像とも違うことに気がつかないと、政権どころか・・。


「全員野球」を掲げるならば、そもそももっとわかりやすい形での男女混合チームにすべきだったのかも。

ひととき前、「おにぎりマネージャー」は大きな話題になったが、

「マネージャー」職をアピールするなら、同様に女子だけでなく、男子のマネージャーもおくべきだ。

まあ、こういうことを書くと、「党内のバラバラ感をあおるな」と、また国体や選対からお叱りがくるかもしれない。

でも、それと、これとは違う。

ワタクシは政策論を言っているのだ。

民進党(民主党)の良さは、自由闊達に議論ができるところだった。

特に、社会の状況と乖離している所は、

きちんと指摘ができる土壌があった。

が。

選挙に破れ、縮小して行く中で、そういうことを指摘する人は内部に少なくなり、

私のような総支部長とて公認権を握られているから、弱い立場で発言する(勇気のある)人もいなくなって来ている・・ような(泣)

条件や環境の良い中で育ち、強い男性に庇護された範疇のみ女性は活躍できるが、それでも所詮「内助の功」要員。

「女性議員を増やす」と表向きには言っていても、結局、こう。

・・というふうに、とられかねないようなことは、やめようよ。

真に、全ての人が、それぞれの個性を生かしつつ、生きられる社会を。

「カチマス」がプレーを通じて体現しなければならないのは、そんなことなのではないだろうか。

ということを、ご本人に直接伝えようと思う。

もはや「男子球児+女子マネ」モデルは、選挙では通用しない。

「カチマス」が勝てない理由はそこにある、と。

以下、前原誠司氏Twitterより

昨日の試合で私は1度だけ打席に立ちましたがデッドボールでした。でもあれだけ大勢のマスコミ・カメラが注目したら、ストライクが入らないのは当たり前ですよね。私はマスコミがいなくても、なかなかストライクは入りませんが。私が対戦した投手を含め、投手陣は皆さんレベルが高かったです。(誠)

昨日の試合で、打のヒーローは参議院議員の森本真治さんです。ヒットを2本も打ち、内1本は唯一の得点となったタイムリーヒットでした。さすが準硬経験者です。可愛い息子さんの応援も、森本さん活躍の原動力になりました。(誠)

意外と言ったら失礼ですが、衆議院議員の篠原孝さんの野球センスの良さには感動しました。最年長の68才にもかかわらず、2度の打席とも芯でとらえ、1本はセンター前のクリーンヒット。ファーストの守備も難なくさばき、お見事でした。(誠)

昨日は先発投手が参議院議員の那谷屋正義さん、リリーフが衆議院議員の階猛さんでしたが、二人とも素晴らしいピッチングでした。1ー8で敗れましたが、2投手の自責点は0です。
階さんは東大野球部のエースだったので期待通りでしたが、那谷屋さんは59才とは思えない球速とコントロールで、4回を投げ抜かれました。あっぱれです。尚更、守備の練習が必要だと感じました。(誠)

山尾しおりさんには、マネージャーとして「内助の功」を発揮してもらいました。始球式を務めてもらい、また最終回には打席にも立ってもらいましたが、やはり彼女には華があります。山尾さんが打席に立った時、乗り出して応援していた5才の息子さんのキラキラ感が、たまらなく可愛かったです。(誠)

Twitterより

2016年11月19日 (土)

「落選中」の研究

先日、金子洋一前参議院議員が「選挙で落選すると議員はどうなってしまうのか(私の場合)」という一文をブロゴスに掲載されていた。http://blogos.com/article/198048/

http://blogos.com/article/198048/
落選生活4か月目にしての実感を書いていて、大変興味深く読んだ。
読みながら「いや〜、公認が出て、選挙区持ったほうが、実は日々の生活は大変になるのだ〜。真面目にやる人のみだが。政治活動と生活費を稼ぐ行為は金銭的には反比例になるんだよね〜」などと、金子さんに伝えたくなったりもした。

まあ、いずれにせよ、落選中の経済的な状況について、きっちり調査・研究したものってないのではないだろうか?
本来は政党がそうしたことをやって、人材をどう育成・維持していくのかを検討しなければならないと思うのだが。
ここらへんは、政治のありようとも関わって来る重要な側面だが、なかなか外に出難い部分でもある。

振り返れば、ワタクシの落選生活は10年に及ぶ(前夫4年+県議2年+衆議院4年)。
実に「人生の5分の1」は「落選中」(笑)
いや、正確には政治活動を自らはじめた25歳からだから、えっ?よもやの「人生の5分の2」だぜい!!
それでも生き抜いて来た自分を褒めたい(笑)おっと、その前に支えてくれた皆様(含・家族)に心からの感謝だが。

当たり前だが、落選生活を楽に続ける人はほとんどいない。

「無所属」が多く、闘い方が国政選挙とは違う、地方議員の落選の場合はまたちょっと別、ということも両方を経験して実感しているところだが、
冒頭にも書いたが、ひとつの誤解は、国政選挙の公認候補予定者となれば(経済的に)楽になる、ということだ。

はっきり言おう。
都市部の選挙区においては、党から支給される月々50万円では政治活動費は賄えない。
我が事務所で言うなれば、事務所費(家賃・光熱費・駐車場代)に人件費一人分で終了。
当然ながら、まっとうな活動をしようと思い、選挙における「定石」を打とうと思ったら、秘書ひとりだけでは限界がある。(365日・24時間闘える、ブラック状況なら可能かもだが)

都市部であれば、人件費はフルタイムひとり増えるごとに20万〜30万円プラス。(これももっと安いところはたくさんあるだろうが、雇用環境改善を訴えるものとして、それはしてはならぬと思っている)
ポスター代はA1サイズ1000枚で約20万円。全戸ポスティングをやろうと思ったら、17万枚刷って印刷費が40万円。ポスティング代は一枚3.3円、56万円。つまり一回100万円仕事である。
もちろん、ボランティアを募ったり、費用をかけないでやろうという努力もして、である。
が。印刷費をケチり、ポスターを安いところに頼んだら、あっという間に色あせて、裏貼り費用や張り替えメインテナンス費用が余計にかかったりと、痛い目をみながら、試行錯誤を繰り返している、というのが現状である。

一方で、対抗しなければならない現職議員は、公費で賄える秘書が3人いる。そもそも、それだけでも年間3000万円ぐらいの差が出る。
文書交通通信費も月額100万円。
つまりは現職と挑戦者では年間4000万円以上の活動費の差がある、ということだ。この数字は現職議員所属の党からの支給を考えずに、だ。実際にはもっともっと差があるだろう。

日々、先輩議員や後援者等から「もっと、人を雇って、ガンガン攻めろ!」と言われるが、ない袖は触れない。

が、シノゴノ泣き言を言っている暇はない。
党の「予調」が行なわれ、数字が悪ければ公認を外される可能性もあるから。となると、国政選挙の場合は、立候補できる可能性がグンと減る。
街宣をし、人に会い、会合に出て、ポスティングやポスターなども出来る限りがんばらなければならない。
自らが街宣カーを運転し、旗をたて、がんばる。今は、それでしのぐしかない。

一方で、党から支給される分を越えた、毎月50万〜100万円の赤字分を確保するために、選挙区内外を問わず、日々走り回らねばならない。やりたいことがあれば尚更、金集めが重要な活動となる。
政治献金やパーティ(ご協力をいただいているみなさま、本当にありがとうございます😭)のお願いをさせてもらうた、当然ながらそれでは追いつかず、自己資金を投入することになる。

ちなみに上記は生活費を一切考慮に入れていない分だ。
実際にはこの他に、家賃、食費、子どもたちの学費等々の「生活費」がかかって来る。
夫がいても子どもが5人いる生活。
政治活動費以外に、ワタクシが担当しなければならないのは大学の学費二人分を含めて、年間600万円あまりである。

しかーし。
いずれにせよ、政治活動(でも資金繰り)をしながら、別途月50万円稼ぐのは並大抵のことではない。

最もよくあるパターンは、落選後、与党・野党問わず許認可系の企業に「就職」する、もしくは「委託契約」系で「仕事」をするというもの。企業はその辺の事情を心得ている。もちろん、人材に関するセレクトは将来的な益を考えてのことであろうことは容易に想像できるが、勤務実績等々、つつかれても大丈夫なよう自衛している。
残念ながら?ワタクシにはそうしたお声はかからないが、

落選中の立場で言えば、そんなオファーがあれば、相当にありがたいと思って飛びつく人がいるのも、わからないではない。
ただ、(企業にとっての)将来性を見込まれた「使える人」は生き延びることができるが、果たしてそれで良いのかという心の引っかかりはどこかで残る。

そうした懸念のない生活が唯一できるのは、国政選挙を目指す地方議員だけであろう。
やること、一緒だから(笑)
2009年の衆議院選挙では心ゆくまで活動が出来たのは、ワタクシが県会議員であったからだと、実感している。
政務活動費での広報も、実質的にはアピール効果もあるわけで、一石二鳥部分が相当ある。

もちろん、自分で会社を経営したり、不動産収入があったり、親から引き継いだ莫大な資産がある、という場合は別だ。(にしても、資産を減らすことになってしまうのだろうが)

日本の政治業界は、新規参入が難しいとされてきたが、55年体制の崩壊以降はそうでもなくなった・・ように見えても、結局は2世、3世オンパレードという状況が変わらないのは、「落選中」を支えるシステムがないからなのだと思う。

薬局でアルバイトをし、化粧品の新作発表会やエステの勉強をしたり、
家庭教師や塾で教えたり、派遣で事務をやったり、
思えばありとあらゆることをやった「落選中」。

結局、時間と場所を選ばない「モノカキ」となって、
ナントカしのいでいるが、
最近、ついつい活動を文字数に換算するクセがついてしまった。

おっと・・こんな無料の文章書いている暇ないんだがね(笑)

「『落選中』の研究」なるノンフィクションでも書いたら、開高健賞とれるかなあ???

2016年11月15日 (火)

日本では「トランプ現象」はしばらく起こらない?

東洋経済オンラインに「『トランプ現象』は、いずれ日本でも起きる」との記事が掲載されている。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161115-00145121-toyo-bus_all

「格差社会の広がりが、最終的には政治分野にも「『エスタブリッシュメントによる大統領の独占』に対する危機感」同様のことをもたらす、のではないか、という内容だ。

立場的に言えば、それを期待したいと思いながらも、
残念ながら、ワタクシはそうは思わない。

「トランプ現象」は日本ではしばらく起こらない。
「百合子現象」は起きても(笑)

以降、縷々、その論拠を示して行きたい。
基本的にはこの6つだ。

①国のトップの選ばれ方の違い 大統領制と議院内閣制  
②地方政治では既に「プチトランプ現象」は起きている
③「毒」は「毒」を持って制する 「家柄」への奇妙な信頼感と「戸籍」
④ 今や美味しくない「政治の仕事」
⑤ 橋下徹氏が闘う、『』つきの『既得権益
⑥ あるとすると自民党が相当に傷んだとき

①国のトップの選ばれ方の違い 大統領制と議院内閣制 
日本の総理大臣は、国民の直接投票では選ばれない。
もちろん、選挙で第一党となった政党のトップが首班指名を受け総理大臣になるのだが、選挙時はそうであっても、政治的転換が必要となった時には「解散」ではなく「内閣総辞職」で総理大臣が生まれる。
日本としては珍しく、久しぶりの政治的エリート家庭以外に育った菅直人総理大臣、野田佳彦総理は選挙で選ばれた総理大臣ではない。あくまで民主党内の選挙に勝っただけで、民意を十分に反映したかどうかはわからない総理である。
旧くは田中角栄総理もそうである。4年に一度、大統領を選ぶ代議員を選出すると言う形で国民が選挙権の行使をしながら、トップが誕生するアメリカとはかなり形が違う。

②地方政治では既に「プチトランプ現象」は起きている
一方で「首長」選挙は、ダイレクトに代表を選ぶ選挙だ。代議員ですらない。任期が決まってるのも大統領制と同様だ。
となると「百合子現象」は起きる。
国政では保守的な選択をする人も、首長選挙では別の候補に入れる、というある種バランスを取ったことが可能である。
ワタクシが育った40年前の宮城県・仙台市では、知事はド・保守、市長は社会党・革新という絶妙な選択によって、市民にとっては居心地の良い高福祉が実現していたと思う。(しかし、その後の選手交代により汚職等が起こったことは、検証・研究の余地があると思っている)
「百合子現象」を見るまでもなく、実は、地方では「プチトランプ現象」は起こっているのだ。
橋下徹氏の大阪府・大阪市はもちろん、あちこちで、地元の名家出身が長いこと占めて来た政治に対するアンチテーゼは起っている。
(もちろん、一方では固定化されたところもあるが)
国政選挙とのバランスの中で、ちょっとした「ガス抜き」は地方政治でできるのである。

③「毒」は「毒」を持って制する 「家柄」への奇妙な信頼感と「戸籍」
格差社会が進む以前から、ある特定の「政治一家」が権力を握り続けることに不満がなかったわけでなない。
しかし、その際、それまでの権力に対して抵抗勢力として期待を担うのは、これまた「名家」出身の人だったりする(笑)
細川氏しかり、鳩山氏しかり。
まさに「毒」は「毒」を持って制す、である。
今回の福岡6区の補選を見ても、「知らない人より、知ってる(と思っている)人」のほうが安心感があるのだろう。まあ、名家出身の方が「悪いことをしたとしてもその程度がわかっているから」という安心感が逆にあるような気もする。
名家への信頼は別に日本に限ったことでなく、ヨーロッパ等でも、かならず「ハンガリー・オーストラリア帝国の末裔」とかが出てくる(笑)その理由は古き良き時代への回顧、つまりは「夢よ再び」プラス上記のことに帰着するような気がする。
「『アンクル・トムの小屋』とトランプ大統領のアメリカ」でも書いたが、その背景には差別と偏見が未だ解消されていない、むしろ深層では固定化されて現実がある。「白人」「男性」等いう「生まれながらの優越性」が具現化されず、不満を持っている層も含めて、いずれにせよその所在が誰にでも「分かりやすい」のである。
ところが日本の場合、その可視化は難しい。今回のことで、さまざまに文献を読んでいる中で気がついたのは、日本の場合は「だからこそ戸籍が必要」だ(った)、ということである。
逆に言えば、田中角栄ではないが「今太閤」的な新たな価値付けができればだが、その「今太閤」でも目指すは既存のエスタブリッシュメント。親が築いた人脈や地盤で子孫の生活を保障しようとすれば、一瞬の反撃はできたとしても、結局は同じ穴のムジナになる。
この辺についてはまた別のところで論じたい。

④ 今や美味しくない「政治の仕事」
日本の政治が抱える問題点のひとつとして、よっぽどモノ好きでなければ政治の世界で長く行き続けることが難しいということだ。
特に最近では、過去には情報を握ることによってコントロールできていたであろう利権構造もなくなり、仕事をすればするほど資産は減る、ということになりかねない。選挙も大変だ。政党から振り込まれる交付金だけでは到底賄えない。つまりは余裕のある人しか、自腹の切れる人しか、政治家として活動をし続けることはできない。小選挙区になって、当落が簡単にひっくり返るリスクが高まれば尚更、である。
また政治の世界で物ごとを計るスケール=価値観は、一般社会とはかなり違う。そうしたことを受け入れられ、持ち続けるには、家族も含めて、ある種の慣れが必要となる。
小選挙区制の導入や、公募等も含めた政治文化の変化は若い世代は非・二世議員の新規参入を可能にしたものの、逆の結果をもたらすものとなる可能性を持つというは皮肉である。

⑤ 橋下徹氏に見る「既得権益」のターゲットゾーン
地方政治において、橋下徹氏の登場はある意味「トランプ現象」を先取りしたものだったかもしれない。
多くのに人々が橋下氏に夢中になったのは、彼が今まで「タブー」とされたものと対峙したからである。
が、闘ったのは時の「権力」ではなかった。「公務員組合」や「弱者」の、『』つきの「既得権益」だったのである。
ここもまた書くと長くなるので、ひとつだけあげるとすると、
橋下氏の登場で公務員系「組合」の選挙に対する取り組みの度合いが格段に落ちたということを指摘しておきたい。
それまでは選挙となれば組合の選対が独自に立ち上がり、人とモノの集中投下を行ない、ガッチリとサポートして行く、というのがある意味当たり前だった。
が、「橋下以後」は風景が変わった。まさに、ロックオン、である。
「トランプ大統領のアメリカ」が政治的エスタブリッシュに対しての対抗と同時に不法移民等に対して厳しい態度を示していることと対称して見れば、その差はさらに際立つ。
『』つきの既得権益の打破だから、最終的にはエスタブリッシュの否定には行き着かない。むしろ、違う形で「エスタブリッシュ」に組み込まれて行く可能性がある。

⑤あるとすれば自民党が相当傷んだとき 
ここが一番重要だが(笑)トランプのような候補が登場しても、今現在であれば、野党側にはそれを支える政党はない。
小泉純一郎総理が誕生した時のように、自民党が相当に痛み、うちなる改革として、という形しかないように思う。それでも田中眞紀子がそれを支えたことを見ても、エスタブリッシュメントへの憧憬は残るのだが。

こうしてみると、記事の著者が指摘するような、日本が政治の世界においてはアメリカの「周回遅れ」でアメリカ政治を踏襲して行くという形態は取っていないことが分かる。
むしろ、4年に一度のルーティンでの変化よりも、国政や地方ではこきざみな「プチトランプ現象」を続けながら、前進したり、後退したりを続けている。
だからこそ、政権交代を経たとしても、大きな方向転換にはいたらなかったかもしれない。

実は、それこそが日本政治の独自性、強みでもあり弱みでもあるのである

2016年11月14日 (月)

非色

「自由」と「平等」という、少なくとも自分の周りで普遍的価値だろうと信じているものが、薄まったかに見えても血管の中に走り続けている「偏見」や「差別」といった、結果的には自らをもおとしめるであろうものを根絶できないのは、なぜか。

有吉佐和子の「非色」(角川文庫)を捲る。1964年の作品。
それから50年経って、アメリカも日本も世界も、前進したようで結局は変わらぬ立ち位置にいらだっているような気がする。

日沼倫太郎の解説は秀逸だ。

「金持ちは貧乏人を軽んじ、頭のいいものは頭の悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮らすものは昔の系図を広げて成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだといい、美人は不器量なものをあわれみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりもなんらかのかたちで以下のものを設定し、それによって自分は優れていると思いたいのではないか。それでなければ落ち着けない、生きて行けないのではないか、と有吉氏は言う。人種差別の感情もそれとおなじことで、アメリカ人はユダヤ人やイタリア人を、ユダヤ人、イタリア人はニグロを、ニグロはプエルトリコ人を軽蔑する、そしてそのプエルトリコ人にあくがれ(原文ママ)を抱いてアメリカに渡ったのが日本人ではなかったのか、と。
あらゆる存在、あらゆる登場人物たちはこうして相互に否定し合い、事実又否定される。純正白人の看護婦はユダヤ人教授を、人種差別問題に関心の深いアフリカの知識人は黒人妻をといった風に、無限否定の環が登場人物たちをめぐってつながれる。
飽くなき相互主義の目によって描かれているといったのも、そういう意味においてなので、だから登場人物たちは誰ひとりとして絶対化されない。したがって作品世界も閉じられていると同時に開かれている。これが「非色」なのだ。」(「非色」有吉佐和子 角川文庫 解説P415)

「以下のもの」と「帝国の回路」はつながる。
そもそも人の優越など、その基準さえ単純ではなく、複雑で、
本来は判別不可能なものだろうが、それを極力分かりやすく単純化したものが「白人」「男性」で、そこに「血脈」「地脈」も加わる。
あほらし、と思いながらも、超えられないのは、自分も「環」の中に入り込んでいるからなのか。

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2016年11月11日 (金)

「アンクルトムの小屋」とトランプ大統領のアメリカ①

今年を振り返るにはまだ早いが、
2016年私にとって最も価値ある読書は間違いなく「アンクル・トムの小屋」の再読だったと思う。

小学生のころに読んだ時には全く気づきもしなかったが(児童用は読みやすくするために、大幅にカットされている)、完訳を読み進めて行くうちに、今回のトランプ大統領を生んだアメリカは、奴隷解放・南北戦争が起った150年前から地続きにあることを思い知らされる。「アンクル・トムの小屋」や「風とともに去りぬ」で描かれた世界の中に、2016年の今が、まるで透かしのように見え隠れしていることに改めて驚く。(添付の地図参照)

「(前略)私には国もありません。しかし、私は自分の国を持つつもりです。『あなた』の国に望むのは、私を放っておいて無事に脱出させてくれること、ただそれだけです。カナダへ着けば、カナダの法律が私を認め保護してくれるでしょう。それが私の国であり、そうした国の法律なら、私も従うつもりです。(中略)私は息の根が止るまで、自分の自由のために闘います。あなた方がおっしゃっている通り、あなた方の建国の父祖はそうやって闘いました。彼らにそうすることが正しかったとすれば、私にだって正しいはずです!」(「新訳アンクル・トムの小屋」 ハリエット・ビーチャー・ストウ著 小林憲二監訳 明石書店)

たとえばこの一節だけにでも、今に通じる幾重もの問いが埋め込まれている。
(その時も希望はカナダだったんだねというのは置いておいても・・笑)

ワタクシはかなり疑り深い性格なので、自分が読んでいた「アンクル・トムの小屋」(「少年少女世界の文学・アメリカ編」・小学館)と他のものがどんなに違うかを、何冊かAmazonで買って原作と合わせて読み比べてみた。
あらまあ、出だしからまちまち・・。
よく見ればたいていの「アンクル・トム」はストウは「原作」で、「文」は別の人が書いている。つまりは「原作」とはかなり違ってて当たり前なのだが。

完訳を読んで思ったのは
「奴隷解放」がメインテーマで、アンクル・トムが主人公とばかり思っていたこの物語が、実はどうして、ストウが書きたかったのは、人権やエスニシティの問題もさることながら、別のことだったのではないか、ということだった。
つまりは、能力があるなしにかかわらず「白人男性」という「下駄」を履いているが故に逆に「浅はか」となるどうしようもない人、そして、例えば所有者と奴隷という絶対的上下関係がありながらも、その奴隷情婦に支配されてしまったりする、圧倒的権力を持った側の倒錯。それこそが彼女が描きたかったリアリティなのだと思う。
心良き人はそれゆえに経営手腕はなく、結果的に自分が大切にしている奴隷を売るという最悪の結果をもたらしてしまう。富を得るのは吝嗇で、人を人とも思わない、また自分の「生まれながらの優位性」を信じて疑わない人だ。

「たまたま」以外の理由がないのに、人為的に作られたこの「生まれながらの優位性」を、アメリカは建国の歴史の中利用してきたとも言える。
誰から見ても分かりやすい区分とするために、肌の色と性別を「下駄」=既得権益として固定化していく。
「下駄」を失った場合でも、被差別者を売り、危険に晒すことで自らの地位は保全される。
この「劣化した優位」をストウは容赦なく書く。
そして登場させるのは絶対的救済としての母性=男性不在で誕生したキリストである。そう言う意味ではフェミニズムの萌芽も見て取れるのだが、ビクトリア朝時代の価値観の中では分厚い天井からは空は見えない。雨漏りしていたとしても。

公民権運動の高まりとともに、「アンクル・トム」は白人に取り入る情けない黒人の代名詞として使われるようになり、作品自体の評価も下がったと聞くが、今日、再評価がされているというのは、なるほどもうひとつ深いところに手を突っ込んでいることが、理解されて来たということなのだろう。

「『アンクル・トムの小屋』を読む」(高野フミ編・彩流社)はその透かしをフェミニズムからジャーナリズムまで「アンクル・トム」を巡っての社会変容の歴史的意義を現代に引き寄せながら分析することで、よりはっきりとした構造にし提示することに成功している。
「新訳アンクル・トムの小屋」(ハリエット・ビーチャー・ストウ著 小林憲二監訳 明石書店)の巻末には小林氏の「『アンクル・トムの小屋』の再評価と位置づけ」と佐藤宏子氏の「父権の喪失ーハリエット・ビーチャー・ストウとその家族」が解説として付されているが、これまたかなり読み応えがある。

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2016年11月10日 (木)

米国版「ペレストロイカ」としてのトランプ大統領

某ソ連・ロシア研究家の論評が、今回の大統領選挙の意味を語る上で最も説得力がある。

トランプ大統領の登場は米国版「ペレストロイカ」であり、アメリカはこの「ペレストロイカ」を発動しなければ、悲惨な経済破綻と社会の混乱を迎え、将来的にはトランプ氏を遥かに超える危険人物が大統領になって猛威を振るう可能性は大であったのだ、と。

安保や自由貿易に関する政策では
リベラル層が保守政策を説くクリントン氏を押す等々、
磁場がゆがみ、完全にねじれた選挙を、予備選も含めて1年間も国民が共有した過程の中で、既に「ペレストロイカ」のスタートは切られていた、とも言えるのである。

2016年11月 8日 (火)

「サザエさんの東京物語」

憲法24条改正を巡り、「理想はサザエさん一家」と啓発している団体があるそうな。

長谷川町子が「サザエさん」を描いた時代背景と、彼女自身の家族の有り様を知っていれば、サザエさんが現実とは近いようで遠い「ファンタジー」であることを理解するのはそう難しくもない。
これはリテラシーの問題である。
長谷川町子作品を読む解く力が欠如しているのだ。

「サザエ」は愛読していた志賀直哉の小説の御殿女中「小江」(サザエ)から取り、海岸沿いに家があったので散歩の途中で登場人物は全て海に関係するものにした。

戦前、戦中、戦後を駆け抜けた家族は、父や夫が病気、戦争で次々亡くなり、女系一家で生き抜かなければならなかった。(独身だった町子以外は皆、結婚後、若くして夫を亡くしている。父は52歳で病死。鞠子の夫は1週間の結婚生活の後出征、戦死。洋子は二人の娘に恵まれたが、夫はガンのため35歳で急逝する)

町子の3姉妹のうち、末の妹長谷川洋子が書いた「サザエさんの東京物語」はそんな一家の状況を正直に書き記している。

父の死後の母の奮闘、将来を見込まれながらも画家としての筆を折る鞠子。激しい人見知りで自分本位の町子。家族の呪縛に苦しみ60歳を越えて「自立」をし、姉妹とは絶縁する洋子。
母は自らの経験を踏まえ、結婚に頼る生き方をしないように娘を育てたし、「姉妹社」という社名に象徴されるように、彼らは「父」不在の中、逆に女系家族の強みを生かして成功に至る。が、前述のように、そこには「家族の呪縛」が積まれて行く。
それが「家族」の「家族」たる所以なのだが。

「理想の家族」とされるなんて、ありがた迷惑!!

ニヒリストで皮肉屋、自分は意地悪ばあさんが近いと語っていた長谷川町子もそう言って、ため息をついているに違いない。

それでも「サザエさん一家」が理想という方には、あらためて、「サザエさんの東京物語」をご一読することをお勧めする。

*長谷川洋子氏が「ニューヨークの24時間」(千葉敦子著)を出版した人だとは知らなかった!
すごい!!

2016年11月 3日 (木)

百合子氏の死角②「男ヘンの嫉妬」「女ヘンの嫉妬」

人には「くせ」がある。いわゆる「行動パターン」である。

改めて「女子の本懐」(文春文庫)を読み返すと、百合子氏の「くせ」がよく見えて来る。

2005年の郵政解散前、兵庫6区での百合子氏の劣勢が伝えられた主因は、自衛隊である。
兵庫6区は伊丹駐屯地を抱えているが、自衛隊関係票は小沢一郎氏が押さえていて、それが相手候補の市村氏に流れているとのことだった。
負けることなどありえない、そして実際に負けたことがない彼女の政治キャリアの中で、選挙の当落で多少也とも恐怖を感じていた瞬間があるならばこの時であろう。
「刺客」として転区をし、郵政解散での大勝利の立役者となった百合子氏にとって、その後も自衛隊はどこかでトラウマとなっていたのかも。
そんなことを思わせる記述が「女子の本懐」にも記されている。
2006年、久間防衛大臣の失言辞任で、急遽、女性初の防衛大臣として防衛省に乗込んだ百合子氏がドキュメント調に語る場面だ。

「・・私を乗せた大臣車のセンチュリーが防衛省の敷地内に滑り込むと、右側の小さな台に乗った自衛隊員が渾身の力をこめ、大声で、何やら叫んだ。
「うわう、うわうしっ」
何を言っているか、わからない。
秘書官に聞くと「服務中、異常なし」と言っているという。」
(「女子の本懐」P23)

「うわう、うわうしっ」
その時の声を記憶していること。そしてこの記載。確かに、そう聞こえたのかもしれない。が、その音をそのまま書くかと言ったら、普通は書かないような気がする。ちょっと小馬鹿にした感じが出るから。でも、書く百合子氏。
それだけで、彼女の「引っかかり」が見えてくるようである。

「女子の本懐」には百合子氏の「行動パターン」の原理原則が明らかになっている。

①一日に何度もお召し替え=映像での映り方を逆算する
②むしろ威厳を持ってあたらねば、相手が困る。
(自分でも)内心「エラそーだなあ」と思いながらも、なりきる
③女性の側は肩肘張って望む訳ではない むしろ肩肘張って女性のトップを迎え入れるのは男性側 等々・・

「肩肘張って」彼女を迎え入れた人がいる。守屋武昌次官だ。
が、さすが「防衛省の天皇」とまで言われた男性。
百合子氏の初登庁日は女性自衛官が花束で出迎えるセレモニーを発案、週刊誌のグラビア取材には、大臣のバックに選りすぐりの“イケメン”自衛官を揃えたという。
もちろん狙いは百合子氏に取り入り、異例とも言える5年目に突入した在任期間をさらに延長しての続投を確保することだ。
ところが百合子氏は守屋氏にも、塩崎恭久官房長官にも相談ないまま、守屋氏を退任させ、警察庁出身の西川徹矢官房長を後任とする人事案を進める。
そこからの大バトルは報道された通りだが、国会ではテロ特措法延長の問題もあり、百合子氏は混乱の責任をとって防衛大臣を辞める。
「事務次官の交代を閣議人事検討会議を無視して一部新聞にリークしたうえ、夜中に携帯電話で通告しようとするなど非常識で手順を無視している。こうしたスタンドプレーを放置すると、安倍首相のガバナビリティーに疑問が出かねない」(官邸周辺by夕刊フジ)と
いう流れを受けて、自ら、辞めさせられる前に辞める、という形をとったのだが、その後、2007年には東京地検特捜部が防衛装備費の汚職事件で守屋氏夫妻を逮捕、百合子氏の「正しさ」が追認される形になる。

百合子氏が守屋氏の人事に固執したのは既に東京地検が守屋氏を調べているという情報が届いていたからで、だからこそ、「私は間違っていない」という強気を貫いていけたのである。
しかし、なぜ失敗したのか。
「女ヘンの二文字『嫉妬』を男ヘンに変えてほしい」
そういう百合子氏。男ヘンの嫉妬とは「人事」だということへの認識が甘かった、ということかもしれない。
この「男ヘンの嫉妬」については別途ページを割いて詳しく書きたいが(いらんか?笑)
彼女はその「男ヘンの嫉妬」に屈しざるを得なかった無念を、いずれの時にか必ず「どこか」で仕返しをすることを、防衛大臣退任時の挨拶の中で宣言している。

「最後に、「国防については『I shall return』の気持ちで、これからも頑張っていきたいと思っている」と述べ、退任会見を締めくくった。
「to where(どこに)」ということは言わなかったが・・・」(「女子の本懐」p194)

to where・・・
彼女はさまざまな思いを旨に、東京都知事という「男ヘンの嫉妬」の場所に「戻った」のだ。
百合子氏が、防衛省でも勘づき対峙しようと思っていた汚職他は、今回の場合は豊洲やオリンピックとなる。
過去の失敗の経験を経て、人事等の「切り札」をどう使っていくのか、ちと楽しみである。

という側面がありつつも、
政治家の基本的には「行動パターン」はなかなか変わらないと思っている。
55日で終わった防衛大臣時代における彼女の「決断」や攻め方、引き際をおさらいすることは、都政や、都政に留まらない政治情勢の「今後」を見る上で、重要な情報である。

助かるのは、それを彼女自身が本にして残してくれている、ということだ。

彼女は「記録」することにも執念がある。
つまりは自分の理が正しいと言うことを人に伝えたい、という思いのあり、自分の意に反した人の理不尽な言動についても記憶し、いずれの時には必ず書くと思う。
「ハチのひと刺し」ではないが、女ヘンの「嫉妬」って、こういうことかもしれないよね。

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2016年11月 1日 (火)

百合子氏の死角〜その①

もはや、百合子氏は気がついているんだな、と思う。
自らの「死角」に。
気づいているなら「死角」であるはずはないのだが、
そのそぶりさえ見せていないのは百合子氏の百合子氏たる所以である。

その「死角」とはなんであろうか。

①軽い「後継者」

よく言われることだが、小池氏はその時々の実力者にすり寄り、くっついたり別れたりしながら、自らの政治的位置を保持、高めて来た。
今回、初めて権力者に抗うことで、闘いを有利に進める戦法に出たのだが、日本新党→ 新進党→自由党→保守党→自民党と出入りの多い道を歩んで来た彼女も、自分の身内を固めるのはあまり得意ではないらしく、党内においての手勢は多くはなく、また「後継者」についてはビミョーな選択をしている。
寄りかかられるのは不得手。いつでも逃げられる、身軽な体制でいたいということがその後ろにはあるのだろうか。

今回の補選に関して述べる前に、彼女が「後継」を立てた2005年、郵政解散の時を振り返ってみよう。
小泉純一郎氏の立てた「刺客」として、彼女は兵庫6区から東京10区へと転区する。
泣く泣く??
いや、当時地元で言われたのは、彼女の情勢は決して良くなく、小選挙区では敗れるのではないかという噂が飛んでいた。
逆に言えば渡りに舟の転区だったとも言える。
そこで彼女は自らの後継にある意味驚きの?選択をする。
木挽司氏。当時の伊丹市議会議員だ。今回の「7人の侍」よろしく、彼女を地元で支えるイエスマン。
人柄は良いと評判だったがいかんせん地味。その時まで国政に出ることなど微塵も考えていなかったことは明らかだった。
さて、その後継・木挽氏はどんな政治人生を歩んでいるのだろうか。
郵政解散では当選するものの、2009年の郵政解散では落選。その後は捲土重来を期し、自民党衆院兵庫6区の支部長に就任し活動をつづけるが、翌年、突如として川西市長選に挑戦を表明。自民党は既に現職市長支持を表明していたため、兵庫県連は木挽氏の除名を党本部に申請、総支部長活動費800万円の返還を求めた。市長選挙ではダブルスコアで敗れ、政界引退を表明。
・・・つまりは組織と喧嘩して別れる。
ん?どっかで聞いたことがあるような。
そうなのだ、今回と似た展開?とも言える。

続いて、今回の若狭氏のケースである。

若狭氏は元東京地検公安部長。弁護士。テレビにも出て事件他の改札等を行なう等、それなりの知名度はある。
2013年の参議院選挙全国比例区に、自民党公認で出馬するものの、最後の議席を太田房江氏と争い、落選。
参議院は6年間あるので、他の選挙に転出等で、次点ならずも次々点ぐらいまでの人には任期中、いずれかのときに思わぬ時に繰り上げ当選の見込みがある(元巨人・堀内恒夫氏のように)し、次点ならばかなり早いうちに議席が回って来る可能性がある。

しかし、彼はその次点の座を捨て、2014年、衆議院に鞍替えを選択した。小選挙区ではなく比例単独候補として。
議席を持っていないわけだから当然ながら名簿順位は小選挙区を闘った人々の下。比例重複が24位まで来ていて、その後・・に来るはずが、25位には元経産省の鈴木隼人氏、26位は料理研究家の前川恵氏、その次の27位が若狭氏だった。上西小百合議員との会食で有名となった?赤枝恒雄氏が28位がその次。
この名簿順位を見ても、次点というポジションを捨ててまでの覚悟を示した若狭氏が自民党内で十分に評価されているとは言い難い。
若狭氏にはこうした不満が潜在的にあったに違いない。
そして党の判断によって順位付けがされる比例区ではなく、次の選挙では是が非でも小選挙区を取らねばならない。

小池氏が都知事に転出するのは若狭氏にとってなによりのチャンスだった。
ただ、党にとっては「1議席増やす」選挙ではない。
ちなみにいわゆる「ゲス不倫」で宮崎謙介氏が辞職、補選となった京都3区の場合も同じように比例区で比例復活をしていた泉ケンタ氏が辞職し、衆議院小選挙区に再び立候補をした。が、外から見れば同じように見える選挙も実情はかなり違う。

まず、補選が取れれば民主党(当時)は一議席増やすことができる。比例では同じ京都の北神圭朗氏が繰り上がる。北神氏も京都4区で小選挙区を持っているから、次の選挙でも現職に復活すればかなり有利になる。
また、京都3区は泉氏以外に勝てる候補はおらず、一旦辞任したとしても小選挙区で勝利すれば1議席も増え、泉氏、北神氏のみならず、党にとっても大きな収穫が望める選挙なのだ。

一方で、若狭氏の場合は、自民党にとってはあまり実がとれない選挙である。
若狭氏から見ればメリットは大きいが。
彼は「比例区選出」では得られない「自由」を得たことになる。
いざとなったら「離党し、新しい党に参加ができる自由」だ。比例区の場合はあくまで離党はできるが、所属していた党が存続する限り、任期中は別の党に参加することができない。
この差は大きい。
若狭氏は自民党内でもそのキャリアに対して十分な評価がないとの居心地の悪い思いをしていたのかもしれない。

ただ、今回の選挙で露呈したのは、若狭氏が小選挙区で闘う十分な後継としての力があるかといったならば、そうでもないかもしれないということだった。百合子氏の応援を受けながら、思ったほどの得票は得られなかったのである。
そもそもの予想では鈴木氏とはトリプルスコア、と言われていた。もっと離れてもいいはずなのに、低投票率を考慮しても、ちと伸び悩み過ぎ。
もしかすると、近々あるといわれる衆議院選本番では190センチの鈴木氏に追い着かれるしれないという危機感を百合子氏なら持ったはずなのである。
これは自民党内が動かなかったということでもある。

さて。
百合子氏の目標は総理、ということは誰もが思うところであろう。
そうなったときには・・自民党という組織をまとめなければならないが、ふたりの後継を見て分かる通りに、彼女も彼女の後継たちも組織をまとめたり、その中で力を発揮するタイプではない。

大統領制(二元大統領制)では光るが、議院内閣制ではイマイチ。

今まで、議院内閣制の中で生きて来た百合子氏は自分の輝き場所を見つけたのだが、先の先にある思いを遂げるためにどう行動して行くだろうか。

兵庫時代から県連等の活動にはあまり積極的に関与してこなかった百合子氏。逆にそれは意図的にかもしれない。

「7人の侍」がどうしたこうした等々は、判断基準に入ってこないだろうな。
だから、軽い後継と手勢なんだもん。

緑のスカーフをたなびかせて、誰も連れず、ひとり孤高ともいえる趣で兵庫県庁に入って行く百合子氏の姿を思い出しながら、そんなことを思う。

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