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2016年11月14日 (月)

非色

「自由」と「平等」という、少なくとも自分の周りで普遍的価値だろうと信じているものが、薄まったかに見えても血管の中に走り続けている「偏見」や「差別」といった、結果的には自らをもおとしめるであろうものを根絶できないのは、なぜか。

有吉佐和子の「非色」(角川文庫)を捲る。1964年の作品。
それから50年経って、アメリカも日本も世界も、前進したようで結局は変わらぬ立ち位置にいらだっているような気がする。

日沼倫太郎の解説は秀逸だ。

「金持ちは貧乏人を軽んじ、頭のいいものは頭の悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮らすものは昔の系図を広げて成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだといい、美人は不器量なものをあわれみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりもなんらかのかたちで以下のものを設定し、それによって自分は優れていると思いたいのではないか。それでなければ落ち着けない、生きて行けないのではないか、と有吉氏は言う。人種差別の感情もそれとおなじことで、アメリカ人はユダヤ人やイタリア人を、ユダヤ人、イタリア人はニグロを、ニグロはプエルトリコ人を軽蔑する、そしてそのプエルトリコ人にあくがれ(原文ママ)を抱いてアメリカに渡ったのが日本人ではなかったのか、と。
あらゆる存在、あらゆる登場人物たちはこうして相互に否定し合い、事実又否定される。純正白人の看護婦はユダヤ人教授を、人種差別問題に関心の深いアフリカの知識人は黒人妻をといった風に、無限否定の環が登場人物たちをめぐってつながれる。
飽くなき相互主義の目によって描かれているといったのも、そういう意味においてなので、だから登場人物たちは誰ひとりとして絶対化されない。したがって作品世界も閉じられていると同時に開かれている。これが「非色」なのだ。」(「非色」有吉佐和子 角川文庫 解説P415)

「以下のもの」と「帝国の回路」はつながる。
そもそも人の優越など、その基準さえ単純ではなく、複雑で、
本来は判別不可能なものだろうが、それを極力分かりやすく単純化したものが「白人」「男性」で、そこに「血脈」「地脈」も加わる。
あほらし、と思いながらも、超えられないのは、自分も「環」の中に入り込んでいるからなのか。

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