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2016年12月

2016年12月21日 (水)

「逃げ恥」にみる政治課題  ①事実婚>法律婚

「(結婚で)面倒が増える」
「なくても困らないものをわざわざ買う?」
「別れる時にキレイに別れられない」

社会現象ともなった「逃げ恥」。
ドラマで育って来たバブル世代に夢と希望を与える石田ゆり子を裏主役に配置しターゲット層を広げたり、
同じく若者たちの恋愛と結婚・家族の諸々を扱いブームとなった「ふぞろいの林檎たち」(1983年放送・・ぬわんと33年前!!)で潔すぎる脱ぎっぷりを披露した高橋ひとみが星野源の母役で登場、また藤井隆とリアル夫婦である乙葉を最後に登場させる等々、配役の妙も見逃せなかった訳だが、
実はこのドラマ、日本が内在する様々な課題を出したり引っ込めたりしつつ、見る側とひとつひとつ共有・確認する、ということも。
最終的にはそれらが政治課題であることを、市議会議員や、選挙運動風景を「チラ見」させることで、逆にかなり示唆的に表していたのであった。

何回かに分けて、「逃げ恥」が発した政治課題を考えてみよう。
まずは「婚姻」について。
冒頭の台詞はドラマの中での台詞である。

①事実婚>法律婚

ドラマの設定では、主人公であるみくり(新垣結衣)と津崎(星野源)は便宜上「婚姻する」ことが、お互い利益に一致することから「契約結婚」を選択することから展開して行く。
取り決めの際には、生活を共にすることでの費用の軽減や、税制上の優遇等々の話もしている。
そこには恋愛感情やセックスは介在しない。
ドラマを見ながら、この「婚姻」は成立するのだろうかと言う疑問が頭の中をグルグル。
「契約結婚」と「偽装結婚」は何が違うのだろうか?
脳内六法全書がパタパタと捲られる。

婚姻を巡る法律は以下である。
まず、憲法。
第二十四条
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」

雇用主と労働者。みくりと平匡さんの関係は平等なのだろうか?

次に民法を見てみよう。

第752条(同居、協力及び扶助の義務)
「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」
これは夫婦の同居義務、協力義務、扶助義務についての規定である。
民法上は明記されていないが、夫婦間の基本的な義務として貞操義務もあると解されている。だからこそ、貞操義務違反(不貞行為他)は離婚原因を構成し、不法行為にもなるのだ。

民法第755条(夫婦の財産関係)
「夫婦が、婚姻の届出前に、その財産について別段の契約をしなかったときは、その財産関係は、次款に定めるところによる。」
夫婦が財産契約ができることを定めた規定。婚姻の届出前に契約をしておく必要があり、届出後の変更は許されない(民法第758条第1項)。
夫婦財産契約がなされなかったときは、夫婦間の財産関係の規律は、民法に定められた規定(法定財産制度)となる。

民法第760条(婚姻費用の分担)
「夫婦は、その資産、収入その他一切の事情を考慮して、婚姻から生ずる費用を分担する。」
夫婦間の婚姻費用の分担についての規定である。この費用には金銭による分担だけでなく、家事や育児の担当などの労働による分担も含まれると解されている。例えば、妻が専業主婦の場合、妻は家事・育児を担当し、夫は妻に金銭を渡すことが婚姻費用の分担となる。

民法第761条(日常の家事に関する債務の連帯責任)
「夫婦の一方が日常の家事に関して第三者と法律行為をしたときは、他の一方は、これによって生じた債務について、連帯してその責任を負う。ただし、第三者に対し責任を負わない旨を予告した場合は、この限りでない」
日常の家事に関する法律行為についての夫婦の連帯責任を定めた規定である。

んんんんー。
これを見る限り、もしふたりのうちどちらかがこの婚姻が無効と主張した時に、裁判所で「婚姻」として認められるかどうかはわからんよね。

おっと・・そうそう、そもそも「事実婚」だったんだっけ。

彼らが「事実婚」にした理由は、簡単である。
「法律婚」より有利だからだ。

冒頭の台詞に戻ろう。

「結婚で面倒が増える」
「なくても困らないものをわざわざ買う?」
「別れる時にキレイに別れられない」

戦前の婚姻は「家」の継承がメインテーマで、そこに当たり前のように「ロマンチック」が入ってくるのは戦後、憲法24条以降のこと。
相当な財産等やお家存続の義務があれば、そのコストのある種合理的な意味を見いだす場合もあるだろうが、
特にそうしたこともないだろう若い世代は、
もはや「法律婚」をすることによって負担が増える、と考えられているのだ。
「事実婚」で十分なのである。

ワタクシたちが若い頃(30年前)は、「事実婚」をする人は、「法律婚」をする人より愛情本意で勇気があるイメージがあった。
「事実婚」をしても社会保障の点から言えば婚姻しているメリットはないのだから「事実婚」こそ愛がなければ成立しない前提だったと思う。
が、30年後の今、面白いことに愛情が介在しないからこそ「事実婚」という選択肢が当たり前のように出て来たことが改めて興味深い。

つまりは「法律婚」をすることで、
法的安定性より、法的不安定が増すと考えられ、実際そうだということなのだろう。
確かに、772条の「離婚後300日問題」など、事実婚では全く起らない問題であるしな。

「事実婚」>「法律婚」

立法側にいるものとしては、かなり情けない話だが、
どこまでどう規定をしていくかということについてもタブーを越えて議論をしなければならない時期に来ていると思う。

少子化対策等を心の問題とし、説教や道徳等で解決しようとして失敗し続けている「心でっかち」な政治に対して、痛烈な批判をしている「きずなとおもいやりが日本をダメにする」(長谷川眞理子・山岸俊男著・集英社インターナショナル)にも指摘があるように、
戦後70年、立法者が現実をしっかり見ることを怠って来たということでもあるんだろうが。

2016年12月10日 (土)

「プリンス・ヒロ論」①

ご存知の方も多いと思うが、ワタクシは「皇室ウォッチャー」。

特に「プリンス・ヒロ」を語らせたら、日本有数なのではないかと勝手に思っている。

「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」

働く女子イチコロの言葉を、こともなげにつぶやくプリンス・ヒロ。
何度も断られつつも、諦めず、愚直に欲しいものだけを求めていく姿に、プライドをそもそも持つ必要がない究極のセレブリティ故なのだろうかと思ったりした。

しかし、そんな「プリンス・ヒロ」ウオッチャーのワタクシが、
どうしても攻略できない山がある。

柏原芳恵。

そう、プリンス・ヒロは柏原ファンなのである。

柏原は1965年生まれ。
どうでも良いことだが、ワタクシと同級生(笑)
キョンキョン、明菜他、ライバル多しの昭和40年巳年世代である。
たまたまだが、周りに柏原ファンがおらず、どの層が柏原ファンなのかがわからないのだが、
ブルック・シールズファンでもあることも重ねれば、おぼろげだがストライクゾーンがわかってくる・・ような気がする。

で。
その謎を解明したくなって、iPodになぜか入っていた!!柏原芳恵のライブアルバムを聴く。
スタジオ録音でなく、ライブ。必ずや素の部分が出て来るからである。
「お・ん・な飛翔〜柏原芳恵リサイタル」。
ちなみに1986年プリンス・ヒロはこのコンサートに行き、バラ「プリンセス・サヤコ」を贈っている。

「わたしも20を過ぎまして、『女』という文字の意味が少しだけ、わかりかけてきたような気がします」

20歳の芳恵。
この回りくどさの奥にある、自己抑制!

なるほど、なるほど、なるほど。

弾けることもできない。
14歳で芸能界に入った芳恵はずっとこうした抑制を自己に課しつつ、振り付け通りに歌い続けて来たのだ。
例えば「ハロー・グッパイ」・・生まれ変わったら、コーヒーカップにはなりたいはずもないだろうに(笑)それが大ヒットという皮肉。
「春なのに」で、ようやく、最後、テンポをずらすところでチラ見程度の自己決定権が見えるが、そここそは逆に「自由になりそうでなれない」切なさ全開。
自分で自分をコントロールできないもどかしさ。かといって、それに反論したりもできないつらさ。
同世代のアイドルたちには求められない役割を、柏原芳恵は果たそうと必死なのである。
まさにそこがプリンス・ヒロの心にバイブレートするのであろう。

「いかがなものか」「人格否定」等々、プリンス・ヒロの会見で発言は、その後の社会に影響を与えているものが少なくない。
この言語感覚も、抑制の中から生まれて来たものなのだろうと思う。

しかし、子どもの頃は、その抑制を密かに家族の中では解いていたらしいというのを知って、驚きとちょっとした安心を覚えた。

万博の視察に来た浩宮と礼宮。弟君はあっという間に飽きて、控え室に時間よりずっと前に到着。
そこの用意してあったお土産を選んで遊んでいた。
しばらくして、浩宮到着し、
「なんでおまえが先に選ぶんだ!!」
あくまで最初に選ぶのは自分で、弟は分をわきまえろ的な感じで、烈火の如く怒るという場面が、「クロトンポイントの夏」(町永妙子著)に出てくる。

それから45年以上が過ぎて、
「生前退位」や家族の体調問題等々、気を遣う日々が続いているのだろうが、たまには芳恵氏の歌を聴きながら、癒されてほしいと思ったりする。

2016年12月 3日 (土)

「性と国家」〜「暴力と恍惚」

「はじめに断っておくが、以下のワタクシの論考は特定の政党やグループを非難するものではない。
これは、この30年間、ワタクシが見聞きし、体験してきた「選挙」と「政治」が持つ「暴力と恍惚」について一考察である。」

今年の秋は短かった。
季節の変わり目を感じることもなく、ただただ日々は流れて行く。
そうした中でワタクシは今年の夏から秋にかけて関わることとなったいくつかの選挙を通じて感じたことを、上記のような書き出しで文章にし始めた。

「選挙」に暴力性があるという、そしてそこにはジェンダーという構造的な問題が内在されていると気がついたのは、
(特に鳥越)選挙後に「誰も何も語らない」という、なんとも異様な光景を目にしたからだ。
30年、選挙に関わって来て、初めての事態だった。

選挙権・被選挙権の両方を行使する身として、書き方はとても難しい。
しまいには語り手を変えてみたり、試行錯誤している。

いずれにせよ、ワタクシは「この夏の選挙を通じて、なぜ、ワタクシはこんなに傷ついたのだろうか」という個人的な疑問から出発し、民主主義や国家を語るという壮大な命題にチャレンジしはじめてしまった。
誰も待ち望んでいないと思うが(笑)いや、でも、これは学者やマスコミ等の言論人が見ているものとは、またひとつ違った視点からの「本質」なのではないのか。
見てしまった、知ってしまった以上は思考し切らないと、そしてできれば「誰が読まなくても」(ここ、大事 笑)言語化して残さないと。イエズス様はみていますから、と、ワタクシの中でシスターたちが忙しく動き出すのである(笑)

そんな折、タイミングよく「性と国家」(河出書房新書)が刊行された。
著者は北原みのりさんも佐藤優さん。どちらも良く知るおふたりだ。
「はじめに」で佐藤さんは「国家の持っている本質的な暴力性の解明に北原さんが、文字通り、命掛けで取り組んでいる」と書いている。
「国家の持っている本質的な暴力性」。
なるほど。
ニワトリか卵かはわからないが、「民主国家」に正当性を与える「選挙」にこそ、それが体現、発露されていて、当然なのだ。

この「続き」を、北原さん、佐藤さんととことん語りたい。
「本を読んだ」というより、「エア横はいり発言」を幾度もしながら、対談に割って入ったという感覚。

リアルで「続き」が実現することを、楽しみにしている。

2016年12月 2日 (金)

「いらない記憶」が残るワケ

今日は東大で授業だった。

終了後、学生が寄って来た。

「ぼく、東灘区なんです」
「あ、じゃあ、ワタクシの街頭演説、見たことある?」(by me)
「はい、何度も。いつも見てました」

嬉しいね♥️

選挙区を変わると、それまでやって来たことが「ゼロ=無」になるとずっと思って来た。空しいな。あれだけやった熱量はどこにいくのだろうかと悔しくも思った。

しかし、そうではないということを、最近つくづく感じる。

少なくとも、たとえば、彼の記憶の中には「ピンクの井戸まさえ」の残像が残っているぞ。
人生にとっては、基本「いらない記憶」なはずなのに(笑)

これって、すごいと思うのだ。

「いらないもの」が残っているということは、
ほんの数ミクロンだったとしても「ひっかかり」があったということだ。
ワタクシの訴えや姿が、届いていたということ?・・だよね。
当時の少年少女たちにはさ(笑)

票という形で帰ってこなくても、いい。

「まっとうな法律を持つ国に生きたいよね」

その思いを共有する仲間がひとりでも増えたら、ワタクシの政治活動は大成功!!

声をかけてくれてありがとう



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山下弁護士、川人弁護士、お世話になりました〜☆

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