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2016年12月 3日 (土)

「性と国家」〜「暴力と恍惚」

「はじめに断っておくが、以下のワタクシの論考は特定の政党やグループを非難するものではない。
これは、この30年間、ワタクシが見聞きし、体験してきた「選挙」と「政治」が持つ「暴力と恍惚」について一考察である。」

今年の秋は短かった。
季節の変わり目を感じることもなく、ただただ日々は流れて行く。
そうした中でワタクシは今年の夏から秋にかけて関わることとなったいくつかの選挙を通じて感じたことを、上記のような書き出しで文章にし始めた。

「選挙」に暴力性があるという、そしてそこにはジェンダーという構造的な問題が内在されていると気がついたのは、
(特に鳥越)選挙後に「誰も何も語らない」という、なんとも異様な光景を目にしたからだ。
30年、選挙に関わって来て、初めての事態だった。

選挙権・被選挙権の両方を行使する身として、書き方はとても難しい。
しまいには語り手を変えてみたり、試行錯誤している。

いずれにせよ、ワタクシは「この夏の選挙を通じて、なぜ、ワタクシはこんなに傷ついたのだろうか」という個人的な疑問から出発し、民主主義や国家を語るという壮大な命題にチャレンジしはじめてしまった。
誰も待ち望んでいないと思うが(笑)いや、でも、これは学者やマスコミ等の言論人が見ているものとは、またひとつ違った視点からの「本質」なのではないのか。
見てしまった、知ってしまった以上は思考し切らないと、そしてできれば「誰が読まなくても」(ここ、大事 笑)言語化して残さないと。イエズス様はみていますから、と、ワタクシの中でシスターたちが忙しく動き出すのである(笑)

そんな折、タイミングよく「性と国家」(河出書房新書)が刊行された。
著者は北原みのりさんも佐藤優さん。どちらも良く知るおふたりだ。
「はじめに」で佐藤さんは「国家の持っている本質的な暴力性の解明に北原さんが、文字通り、命掛けで取り組んでいる」と書いている。
「国家の持っている本質的な暴力性」。
なるほど。
ニワトリか卵かはわからないが、「民主国家」に正当性を与える「選挙」にこそ、それが体現、発露されていて、当然なのだ。

この「続き」を、北原さん、佐藤さんととことん語りたい。
「本を読んだ」というより、「エア横はいり発言」を幾度もしながら、対談に割って入ったという感覚。

リアルで「続き」が実現することを、楽しみにしている。

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