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2017年1月 6日 (金)

「初詣にベビーカー」論争に思ふ

「初詣にベビーカー」論争なるものが、新年早々行なわれているらしい。
神社仏閣好きなワタクシとしては、たとえどこの神社を選んでも、ひとりでさえ登るのに息上がる石段があることが頭をかすめる。
あそこをベビーカーであがる勇気はない。
たとえエレベーターやリフトがあったとしても幼児を連れていくには自分へのリスクが高すぎると・・あくまで「自分視点」から、初詣は少なくとも三が日は避けるだろうなと咄嗟に思う。
それは子育て世代や障がい者の自由を奪うという話とは全く別の話として。

「ベビーカー禁止」を掲げたお寺も、それなりの理由があってのことのようで(ベビーカー優遇を盾に大人たちがファストパスのように優先参拝をする😭等々)、今回の問題に限っては、「社会の不寛容さ」とはちょっと違った問題がそこには潜んでいるのではないかという印象を持った。
同様のことを、普段は意見が違うなと思うことの多い山本一郎氏http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamoto…/20170105-00066269/書いていた。
「新幹線等で子どもが泣いてイライラするのは子どもに対してではない。親の対応に対してだ」といった内容のアンケート調査についても紹介しているが、世間の反応はまさにそうなんだよな、とも思った。

ワタクシがベビーカーをひいていたのは今から24年〜10年前のことで、ベビーカーもコンビかアプリカしかなかった時代だから、今の状況を論じるには情報が不十分だろう。
ただ、あの頃、ベビーカーにひとり乗せ、別のひとりで手をつなぎ、背中にはもうひとり背負って、今で言うワンオペ状態で文字通り「号泣しながら」子どもたちを雨の中保育園に送った日を考えると、
今は兄弟でも対応可のおしゃれなベビーカーも、ネットの発達で瞬時に出先の状況も含めたさまざまな情報が得られるけれども「そこ」じゃないんだよね、というのは十分理解できる。
「そこ」以外の、この国で子育てをする人々が本当にほしいところについてはここ20数年、ほぼ進化がなかったのかもしれない。

そう、「初詣にベビーカー」は「社会の不寛容性」の問題とは別のところに問題の所在があると思うが、
逆に言えばそここそが問題なのだと収斂されるところに、
子育てど真ん中世代がいかに普段から「社会の寛容性」を求めてるのかという、なんとも切ない、哀しい現実があるのだ。

話は変わるが、先日、たまたま子育てを一緒にした仲間と車で走っていると、保土ヶ谷のハングリータイガーの看板が目に入ってきた。
子育て真っ最中の時代に、本当によく通ったある意味「聖地」である。

「なんで、あの頃、あんなにハングリータイガーに行かなければならなかったんだろうね」

鉄板は熱い。熱いソースも飛ぶ。
子どもはじっとしていない。ゆっくり食べられたもんじゃない。
だのに、なぜ?

それが合理的ではないとわかっているにもかかわらず、行かざるを得なかったのだ。
子育て真っ盛り時代にかかる過剰なストレスが、
外食したい、旅行に行きたい等々、子どもがいなかった時代と同じように楽しまなければならないという「無理くりオーダー」を自分に課し、ドツボにハマって行くというパターン。

店を出る頃には夫婦喧嘩(笑)
車に乗せた途端、騒ぎ泣きで疲れ切った子どもは沈没。
我もぐったりするのだが、それでもミッションコンプリートした満足感と達成感。
逆に言うと「外に晒される=社会と接する」ことで生じるある種独特の緊張感や疲労感がないと、それらは得ることができなかったのかもしれない。
まさに「生きている実感」だったのかもなあ。

今思えば、なんであんなに意地になったのかもわからないが、いや、それは本当に意地だったのだ。

・・なんてことを思い出しつつ、
久しぶりにハングリータイガーに行ってみようと思うのであった。
たぶん、大人だけで行っても、つまんないんだろうな(笑)

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