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2018年3月

2018年3月20日 (火)

議事録削除は残念

https://www.asahi.com/articles/ASL3N4JWWL3NUTFK00T.html…

モノを書く時に、国会の議事録程役に立つものはない。
先般の和田参議院議員の質疑の中で、最も重要な部分が削除されたことは残念である。
トンでも発言こそ「議事録」に残し、後世の人々の評価を受けなければならないからである。

国会で質疑をしたあとほどなく、議員には自分の発言を書き起こした「議事録」の原稿が届き、間違ったところがないか、修正の機会が与えられる。
言い間違い等はここで修正できるわけなのだが、今回のはそうした単純ないい間違い等ではない。
まさに、今国会の象徴的な質疑のひとつだったと思うので、うーん、史学科的には残してほしかった。というか、残さねばならなかったのではないか。
映像は繰り返し放送されるのだし、削除する意味はあったのだろうかなあ。

当事者ではなく、野党の要求というで削除に至ったということだが、いずれにせよ、こういう判断をどうつけるかも含めて、記録管理の専門家等の意見等も聞いて、妥当なものになるように知見を積み重ねる必要があるなと感じる。

渡辺参議院議員の方の発言は、ご遺族のご意向もあり削除は適切であると思う。

2018年3月19日 (月)

「皇国史観」という問題」再読

この週末、「皇国史観」という問題」(長谷川亮一著・白澤社)を再読した。
ここで書かれている問題が、今起っている状況(森友問題、文科省の前川氏関連の問い合わせ他)とシンクロしていることに改めて気がついた。

「まして、自らのイデオロギーによって資料の解釈を強引にねじ曲げたり、自説に不都合な資料を、それが不都合だという理由だけで無視したり、自らに都合のよいように資料そのものをねつ造したり、全くの作り話を語ってみたり、などといったことをすれば、それはもはや歴史学ではないし、それ以前に学問ですらないであろう。」
2008年、10年前にあとがきで書かれたこの言葉は予言のように「今」を貫く。
「今」を欺く行為は「歴史」を欺く行為であることを強烈に批判している言葉ともとれる。

この本を貫く背骨は、十五年戦争旗において修史事業と思想統制政策を進めた文部省のありようである。
国体論者であった平泉澄東大教授の影響は戦前・戦中よりも、戦後彼の門下生が文部省に入省する形で強まり、戦後の支配層、ことに文部省側のイデオロギーとは適合し、むしろ好都合であった、とこの本は指摘する。
さらには「戦後から今に至る中での「皇国史観の復活」は、単に戦前・戦中への回避ではなく、むしろ、国体論がその時々の状況に合わせて都合のよいように変質していることを示している」とも。

「皇国史観」の延長上に立っているような言動を繰り返す国会議員他の質疑等を見る度に、議論の噛み合ないわけを探ってきたが、「内容的には正確な歴史叙述という意味ではなく」「その政権にとって「正しい」とされる歴史認識を確定し、それに矛盾・抵触する史実や歴史認識は「正しい」ものとして認めたい」(p6)、つまりは自己都合で、自らが信じたい歴史をねじ曲げることに対して抵抗がないとなると対処が難しい。
「近代日本国家の側が「正史」として奉じた「皇国史観」もまた「偽史」として検討すべきではないのか、という思いが次第に募ってきた。」(同書P327)
まさに、そういうことなのだよな。

「歴史戦」なるものに参戦することの無意味さ、面倒臭さを考えると気が重たくなる。
しかし、ここは踏ん張らなければならない場面に至っているのではないかと思う。

論拠が示せない国会質問の愚

1年前の今日、岡崎トミ子元参議院議員が亡くなった。
岡崎氏最後の選挙となった2013年の参議院選挙ではわずか5000票あまりの差で、和田政宗氏に破れ議席を失う。

今日はその和田政宗氏の国会質疑だった。

故郷・宮城県の人々にはこの状況をしっかり見ていただきたいと切に思う。

「まさかとは思いますが、太田理財局長は、民主党政権時代に野田総理の秘書官も務めておりまして、増税派だから、アベノミクスをつぶすために、安倍政権をおとしめるために、意図的に変な答弁をしているんじゃないか」(和田参議院議員)

「お答えを申し上げます。私は、公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが、仕事なんで。それをやられるとさすがに。いくら何でも、そんなつもりは全くありません。それはいくら何でも、それはいくら何でもご容赦ください」(太田理財局長)

国会の質疑は思いつきや偏見で行なわれるものであってはならない。
問うならばその論拠を正々堂々と示すべきである。
それができないのであれば、質問に立つべきではない。

有権者を愚弄しているに等しい行為だからである。

官僚の「日記」と森友問題

森友学園との国有地取引の決裁文書に関わる改ざん内容を見ながら、
ある意味、優秀な官僚たちにして、極めて大ざっぱな内容を残し決裁したことの意図は

①現場の役人がこの取引に納得していなかったこと
②将来的には何かが起る可能性があること
③その際には自分の責任にされること
④回避するために、証拠を残しておくこと
であろうことは、誰もが想像つく話である。

さて、日本では古代、律令制が成立した当時から、
さまざまに公文書の作成、管理に関してのルールがあった。
また公文書とされなくとも、個人的な記録がそれを補完する歴史的資料とされている。

それが「日記」である。

日記はまず朝廷の公的記録として始まった。
日時=日次(ひなみ)順に記載されることが原則だが、行事や事件ごとに特別に記載、記録されることもあった。
「日記」は文字を書くことができる人が限られた時代において、官僚たちが個人的にも日々の活動や諸行事について起ったことを記載する習慣を持ち始めたことにより発達して行く。

漢文や変体漢文で書かれた「日記」は文学ではなく、あくまで「公文書」に書けない部分を記した准公文書とも言えるのである。

中世にはそればかりではなく、感情的な思い等をしたためた「日記文学」として昇華していくが、
今日に至るまで事実が正確に掴めない場合においては、複数の「日記」を照らし合わせてその状況をあぶり出して行く、ということがよく行なわれている。
記載が間違いや意図的に改ざんしている部分も含めてである。

この国の「史実」は数多ある「日記」によって支えられているとも言えるのだ。

今の官僚の方々も、自身や組織の日程管理から、重大な事象他、個人的な「日記」をしたためているのではないかと思う。
しかし、それは何らかの事件が起ったとき、即座に表に出せるものではない。
検証されるべきときまで待たなければならない、もしくは永久に外に出すことができないかもしれない。

となれば、
今ある公文書の中でできるかぎりの「跡」を残しておかなければならないという「自己防衛」が、あの改ざんされた部分なのだと思う。
稚拙な記載となったのは、さらなる「圧」を受けないためであろうか。

確かなのは、
古代律令制が成立して以降、
この国で「日記」をつけ続けた幾千万、幾百万の官僚の思いと共通するものなのだろう、ということだ。

2018年3月17日 (土)

長靴とパワハラ

パワハラ報道を見ながら、
思い出すのはワタクシがいただいた、ありがた〜いご指導のことである。

当時、ワタクシは現職の県会議員で衆議院選挙に挑戦が決まっていた。
党の男女共同参画委員会が街宣活動のお手伝いに来て下さることになり、大丸神戸店前で演説会を行なった。
終わって、街宣カーに乗込んだ瞬間のことだった。

「ハイヒールなんて、ダメ!長靴にしなさいっ!」
ワタクシの足許を刺して、厳しい声が飛んだ。
「な、長靴、ですか?」
「そうよ。それもね、新品のままじゃダメよ。釘で傷つけるのよ、使い込んだようにね」
「く、釘・・」
「そう、ハイヒールは絶対ダメ。長靴に釘、これにしなさいっ!」

これは命令なのか??
しかし、釘はないわー。
偽装じゃん。
有権者をバカにしていないか?

と、猛烈反論したいところだが、こちらは弱い立場。
でも、ここはひと言、言わないと気がすまん。
そうだ!
パワーにはさらなるパワーで対抗するしかない。

「すみません。実は、この間、スニーカーで街宣してたら、前任者のI先生(党幹部)の支持者から『先生の後継の方に、あんな貧乏臭い靴で街宣してほしくない』と電話があってご注意受けました。以来、ヒールにしています。
神戸は履き倒れの町なので、『長靴に釘』はI先生がお許しにならないかと」(←スニーカーで注意されたのもホントの話っす)

これ以来、ワタクシは冬を除いて、基本ハイヒールで活動している。
人知れず行なっているパワハラ反対活動。
つまりは「長靴に釘」への密かなレジスタンス、デモ活動(笑)

2018年3月15日 (木)

瑠璃と真由 あるいは 昭和と平成

森友学園への国有地売却に関する決裁文書を財務省が改ざんした問題。

普段テレビを見ないのだが、この感は毎朝ワイドショーをザッピングしながらチェックしている。
もちろん、元財務省という経験が買われて、ということだろうが、三浦瑠璃氏にかわって山口真由氏が飛ばしている。
コメントも瑠璃氏程暴走しないので、テレビ側としても安心してみてられるのかも。

服装も、きまってレフ板効果ありの白のワンピースかスーツ。瑠璃氏の失敗?を踏まえ、王道感を出すよう、意識しているのだと思う。(「瑠璃論 真由論」については、この問題とは別に論を起こしたい)

コメンテーターの発言は、この問題が取り上げられた初日に支持された住田裕子弁護士の流れを基本受けているようにも思える。

さて、この問題。
ものすごく、稚拙で単純な話なのだが、なぜそれが崩れないのか。

松本清張の「昭和史の発掘」「神々の乱心」を読みながら、
「保守なるもの」(=「保守」ではない)が、さまざまな場面で
「愛国」の名の下に国を閉じようとした「平成」という時代そのもののひとつの姿なのだと思う。

起点となったのは、まさに天皇の「生前退位」についての「おことば」。

昭和のタブーに望んだ松本清張については「皇后考」の原武史先生が「100de名著」で語っている。
どこか今と重なる部分があって、興味深い。

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2018年3月11日 (日)

「東日本大震災で流された大量の「戸籍」が鳴らす警鐘」

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54765http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54765

鎮魂の思いを込めて、現代ビジネスさんに寄稿しています。
故郷の皆さんとともに祈りの一日です。

2018年3月 3日 (土)

北の桜守

3月10日公開吉永小百合主演「北の桜守」の試写をサハリン残留日本人で永住帰国をなさった皆さんと観てきた。
樺太からの引き揚げ者である親子のその後の人生を通じて、「抗えぬ運命」に翻弄される人々とその時代を描いた作品は、様々な問題を重層的に訴える内容で、堺雅人、篠原涼子、佐藤浩市、岸部一徳、永島敏行等、名優たちが演じる役にはそれが投影されている。
ほんの少しの時間ではあるものの、中村雅俊が演じた役の意味の大きさも感じた。
映画の途中途中で、泣かされる。
「思い出したくないこと」
終了後、廊下に出た時に残留者の方がふともらした言葉にさらに胸が詰まる。
だからこそ、私たちは知らなければならない。そして伝えなければならないのだ。

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