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2018年7月 7日 (土)

小説教室で学ぶ「美しい顔」

この春から子どもに付き合い小説教室に通っていることは既に書いた。

先週は芥川賞にノミネートされた「美しい顔」(北条裕子著 講談社)が話題になった。
小説の一部に既に出版された著作物の一部と酷似する部分があった、というあれである。
講師は「全く問題ない」と言い切った。創作(フィクション)とはそんなものだ、と。
私たちが記す物語は、意識的にしろ無意識的にしろ、また姿形が類似していようがいまいが、既に発表されている作品や、過去の表現物の上になりたっている。
言葉は所詮、人をまねて発せられるもの。
感銘を受けた文章の一部が頭に残っていて、それを書いたとしてどこに問題があるのか―——かいつまんで言えば、そんな話だった。


ただ、ワタクシはその意見には違和感を感じる。

引用部分を自分の文章とした時点で「負けて」いるからだ。
人の営みでしか到達することができない言葉をつかわずとも、その状況を想像させ、心をかきむしり、もしかするとそこに確かに存在するものの、人が発せられない言葉を紡ぐのが小説の、フィクションの役割なのではないか、と思うからだ。

「群像新人賞」という大きな文学賞の応募作。
これが取れるか取れないかは、今後の人生に対してもたらすものは雲泥の差だろう。
少しでもよい作品にしたいという欲。
賞も取りたいという渇望。
それはとてもわかる。

参考文献を側に置いて、その文章をキーボードで打つ。
語順を変えたり、語尾をぼやかして「オリジナル」と主張できるようにしておくなどということは、書き手の技量のひとつでもあろう。
しかし、どうあがいても参考文献に書かれている言葉以上の表現はない。
そこで選ばれている言葉も、それをつなぐ「てにをは」さえも「それ以上」がないとしたらーーーー。
文章を書く人は皆、悪魔と対峙する瞬間がやってくるのである。

さて。
「文章を書いてお金をもらう」ということは、360度、どの角度からの批判を受けることでもある。
その「目」があること、また自分自身への誠実からも「盗作」と言われるようなことがないように、細心の注意を払う。ただ段々、それをすり抜けて行く技術も身に付いていくというのもあるのだが。

ただ「応募作」には、その時点では一銭の価値も発生しておらず、逆に言えばどんなズルをしようが「受賞」しなければ、その作品は日の目をみることはない。だからこそ、作品にとって最もよい表現を、たとえ抜き書き、盗作といわれる可能性があったとしても、黙って、自分の文章として提出する、といったことはあるかもしれない。
賞をとり、本になり、人の目に触れない限りは、そもそも道義的な責任など問われようもないのだから。

その「際」が最終選考作に選ばれるか、否かである。
最終選考作はたとえ選に漏れても書籍化される可能性がゼロではないので、そこからは内容も含めて慎重に扱われる。
ノンフィクション関連の文学賞の場合、著名な作家や識者が審査員となって受賞作を選ぶ最終選考に至る前に校正作業が入り、事実関係や参考文献も含めて一旦チェックを受ける。

小説の場合はあくまでフィクションだから、そうした事前のチェックがないのだろうか?
http://www.kodansha.co.jp/…/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/201…
これを読むと、講談社と北条氏の接触は受賞後、初めて、とあるのでそうなのだろう。

しかし、文章を事前の問い合わせもなく、無断で使われた側は穏やかではいられないし、
特に災害に見舞われた被災地で、当事者たちの言葉を集めた時の意図と違う使われ方をしているのであれば、抗議は当然であると思う。
http://shin-yo-sha.cocolog-nifty.com/…/20…/07/post-3546.html

被災地や被災者を文章にすることを抑制しろというのではない。
一度も現地に入っておらずに書くことも否定することはないと思う。
徹頭徹尾、資料をもとに想像と組み合わせて、自分の言葉として語る分にはなんら問題がなかったのだと思う。
でも、そうではなかった。

「圧倒的なリアリティがある」と講師は言った。確かにそうだ。「今回は芥川賞はでないかも」とも。
全ての候補作を読んだところ、リアリティ、臨場感を持つ「美しい顔」がダントツだと言う。
そのリアリティを支えるものがコピペまがいならば、それはやはりアウトなのではいかと思うが、冒頭のように全く関係ない、というのが彼の評価だった。

「あと、嫉妬ね。北条さん、キレイなんです」。
そこは全く関係ないと思いたいところだが、プロモーション的には大事な要素かもしれない。プラスになってもマイナスになることはないと思うが、どうなんだろうか。

加えて「このテーマは被災地にしなくても書けたと思う。なぜ東日本大震災を選んだのか、そこはわからない」とも。
「3.11を描くことも必然となって、ハードルが上がる。
このテーマだったら、ほかの設定にすることも十分に可能だったのではないか」というような指摘もしていて、そこはなるほどとも思った。

いずれにせよ。
「美しい顔」で描こうとした被災者とマスコミの関係といった難しいテーマはより広範に問いかけられる結果となった。
小説として、そして皮肉にもノンフィクションとしても。

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