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2019年1月

2019年1月 6日 (日)

LGBT「国はつぶれる」発言の平沢氏はクイーンファンだった

「性的少数者(LGBT)ばかりになったら国はつぶれる」と発言した自民党の平沢勝栄衆院議員はクイーンファンだ。
私がそれを知ったのは2011年のこと。クイーンカレンダー欲しさに買った「QUEEN 永遠のクイーン」(日経BP社)を読んでいたら、「クイーン&フレディに捧ぐ35通のラブレター」コーナーで音楽界の有名人が並ぶ中、いきなり「平沢勝栄」の名前を見つけてぶっ飛んだ。

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丁度、衆議院法務委員会で一緒だったので、次の委員会の時に「クイーンファンなんですね!」と確認を入れたら「そうなんだよ。イギリスいたからね」と言っていたが、彼はクイーン&フレディから何を学んだのだろうか。
「国がつぶれる発言」について平沢氏は、産經新聞の取材に対し「日本の少子高齢化問題についての文脈で発言した。LGBTの方の権利を守るのは当然だと思っている。存在を否定する意図は全くない」と説明したが、いやいや、そうだとしても、この発言はない。そこに差別的主観が含まれていることに、自ら気がつかないというところがさらに深刻である。

クイーンの楽曲には70年代、80年代のイギリスの社会状勢、時代性が見える。
「QUEEN 永遠のクイーン」ではクイーンの「やりすぎちゃった70年代」や「今ならNGな名曲たち」等がさまざまな角度から論評されている。「『バイシクル・レース』なんて、他のバンドはそんな曲つくらないって(笑)」(トリビュートバンドグイーン)等々、「だよね」と共感しながら、人が気づかず通り過ぎることを主題にして歌ったからこそ、クイーンは何度も甦るのだと納得させられる。

Save me, save me, save me
I can’t face this life alone
助けて、助けて、助けてください
僕は孤独な人生と向き合えない

Save me, save me, save me
I’m naked and I’m far from home
助けて、助けて
僕は裸で家から遠いところにいる

(平沢氏が好きという「Save Me」留学生の歌詞和訳サイト

フレディの痛みを理解してこそのクイーンファン。
もう一度、聴き直してほしい。

2019年1月 5日 (土)

政治家・政党と参拝問題

天皇の「おことば」や行幸での報道が出る度に、
政治家たちの間でSNS等で微妙な敬語を使った礼賛が行なわれることに以前から違和感を持っている。
園遊会や天皇誕生日での「ご招待」に関しても、国会議員の招待は各党が希望者の中からセレクトするのが通例だ。招待状を見せながらまるでひとりひとりを天皇自らが選抜したかのような、ある種大げさな記述をみる度に、実にお手軽な「セレブ感」だなあと思う。
そこまでして「天皇」と自分の関係性を何らかこじつけて世に知らしめなければならない便乗マインドとは、一体なんなのであろうか。
「保守」と言われる人だけでなく、この流れに乗っている政治家は多い。

もちろん、人を尊敬する気持ちは大切にしなければならない。
ただ、それをわざわざ外に向かって「顕示」するとなると、立場によっては別の意味が出てくる。
また、自分たちはマイノリティではなく、「正当な日本人」であるとの宣言をしているようにもみえなくもなく、そこに逆に脆弱性も垣間みえてくる。

さて、立憲民主党の年始の伊勢神宮の参拝にさまざまな議論があがっている。
首相の伊勢神宮参拝は、1955年、鳩山一郎首相が最初に行い、その後中断があるも、67年の佐藤栄作首相以降、慣例化。村山首相を除いて、民主党時代も行なわれている。

私はこうした「恒例」について憲法上の違和感を持つ。

参拝は公人でなく、私人だとして行なわれる。
しかし、その境目はもっぱら当事者の見解に拠る。報道も含め、見る側は「首相」や「公党の代表」としてみるし、そう扱われるため、こうした詭弁は通用しないのではないかと思っている。

・・というようなことを、新しい党ができた時には、議論や擦り合わせが必要となってくるだろう。
先例や恒例、他党の動向だけでなく、この辺もオープンに議論できるかどうかは大事なポイントでもあると思う。

ちなみに、逢坂誠二衆議院議員は、伊勢神宮参拝に関してLINEでの発信についての質問主意書を出している。
https://www.sankei.com/polit…/…/180130/plt1801300032-n1.html

ひとひねり入れた質問主意書となっているが、問題意識は共有していると思う。

さて、こうした前提の上で「皇后考」等天皇・皇室研究を行っている原武史さんのTwitterでの指摘をあげる。

「与野党相乗りで同じ日にアマテラスをまつる伊勢神宮に参拝するというのはいかがなものか。枝野代表は野党の党首らしく、スサノヲをまつる地元大宮の氷川神社に参拝すべきではなかったか」
https://twitter.com/haratetchan/status/1081191763514028040

出雲と伊勢の観点から見ても、今回の参拝は興味深いものとなる。
私も、枝野さんは歴史的、政治的経緯も理解した上で、個人として大宮・氷川神社にこだわって毎年参拝していると思っていたので、党幹部と一緒に行なった今回の伊勢参拝は確かに意外でもあった。

いずれにせよ、この機に議論が深まるといいなと思う。
いや、深めなければならない。

2019年1月 4日 (金)

「山が動いた」から30年あまり 消費される女性候補たち

現代ビジネスに寄稿しました。
2019年は選挙イヤー。
「山が動いた」から30年余り。

「マドンナブーム」や「小沢ガールズ」等「消費される女性候補」と、候補者擁立の過程で求められる「政治的処女性」の行く末についても言及しています。
・・って、今日の記事は箱根駅伝のが多し。ワタクシもそっちでも書きたかったな(笑)

2019年1月 3日 (木)

再生産される「わたしは、私」

新年早々、話題の「わたしは、私」。
https://www.sogo-seibu.jp/watashiwa-watashi/

 パイを投げつけられる暴力的画像や、「女だから、強要される」「女だから、無視される」「女だから、減点される」等、昨年問題となった強姦や、医学部差別入試等を意識したコピーが物議を醸し出している。
 既にSNS等では炎上しているが、西武・そごうの広報部は「なんで?」の思いかもしれない。「自分たちは顧客である女性たちに寄り添っているではないか」と。
 それがしらじらしいほど表層的であることに、制作過程で気がつくことがなかったとは、まさに女性をとりまく現状を端的に表すこととなった。
 ここで書かれる「私たち」は「日本に生きる女性たち」ではなくて、あくまで広告の作り手である「日本に生きる男性たちが想像する女性たち」である。
 広告が世に出るまでには女性も関わっているだろうが、「女性も入って作ったんだから、大丈夫」的な油断も感じる。男性社会の中で「適者生存」するために、立ち位置が男性側になった女性目線は、当然ながら男性目線だ。そうしたバイアスがかかった「女性の痛み」をいくら並べても、ただただ文言を並べただけ。パイ投げの画像も同様、単なる暴力を可視化しただけ。
 結果、共感を生み、企業のイメージアップに貢献、最終的には売り上げ向上につながるという目論みは見事に外れた。
 ま、本当に「女だから、減点される」他に異議があり、寄り添う姿勢があるのなら、もっと前に、もっと違う行動をしているだろう。企業だったとしても、だ。


 さて、今年は安藤サクラを起用した「わたしは、私」だが、西武・そごうがこのCMを出すのはこれが初めてではない。
 2017年は樹木希林バージョンだった。(2016年12月20日公開)https://www.youtube.com/watch?v=Ep95r6avrTI
 この二人はカンヌ映画祭パルムドール賞受賞で話題になった「万引き家族」の女優たちである。
 その連続性も含めて、話題になることを意図していたことは明らかであろう。
樹木希林バージョンへの書き込みをみると、絶賛が続く。
 何かに縛られている女性たちが自らその鎧を脱ぎ、限界線を消し、生きる。
実生活でもそれを実践してきた樹木希林だからこそ、説得力があったのだろう。
 ただ、樹木は離婚無効の裁判や、民法上存在しなくなった「婿養子」の概念を家族構成の軸とした「ロックンロールでない」部分もあったが、時代を一周して、むしろそれを「ロックンロール」と感じさせてしまう力技を持っていたともいえるだろう。 樹木希林については別途述べたいが、樹木希林が主張するのは変わる主体はあくまで「わたし」であって、社会ではない。
 社会が示す基準や価値観はあとから変わるかもしれないから、それに縛られて生きて行くのはもったいない。主張されるのは社会と私は別。社会を構成するのは「わたし」でもあるということは意識されていない。

 「わたし」から「私」になるという表記の変化についても、単に感覚的なもので、そこに社会的意味づけや、言及はない。

 ここに、不平等や理不尽に対しての怒りはない。あるのはあきらめと、社会との距離感である。

 そのたった2年後、2019年、「パイ投げ」さげる女性たちは、樹木の娘たち、孫たち世代である。「わたしは、私」と言わねばならない社会は、さらなる暴力性を増しながら、再生産されているということだろうか。

 近々、「消費される女性たち」について書いた記事が公開される予定だが、男性に比して女性の場合、年齢とともにキャリアを重ねても評価されず、「若くて未経験」が評価される傾向がいまだに当たり前のようにあることに驚愕する。
 このCMで、私が最も注目したのは「女の時代」だ。
 なぜ、2019年の正月に「女の時代」?
 「女の時代」と言われたのは 男女雇用機会均等法からバブルに向かう1980年代なのに?
 80年代の「女の時代」は、当然70年代の「ウーマン・リブ」の流れを受けている。この時期は日本社会においても男女をめぐるさまざまな意識が変化していく転換期だった。

 このコピーを作ったチームは、こうした歴史的、社会的背景を全く無視して「女の時代」を前面に出す。

 そこには過去、闘ってきた女性たちへのリスペクトは全くない。
 無邪気な無知がどれほど人を傷つけるかへの畏れもない。

 パイ投げされてもビクともしない安藤サクラは、無自覚に日常化した暴力や不平等、理不尽をほぼ等身大で可視化しているのである。

 2019年に闘わなければならないものがどこにあるかも含めて、だ。

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