2月13日の「ねほりんぱほりん」は無戸籍がテーマとお知らせしたら、「無戸籍の日本人」(集英社)の読者さんが本棚から取り出して、再読しているという投稿があった。
子どもの虐待死が続くが、辿れば本書、そして「誰も知らない」のモチーフとなった1988年の「巣鴨子ども置き去り事件」に行き着くのではないかと思う。
ハードカバーの「無戸籍の日本人」には収録されていないのだが、2年後に出された文庫本では是枝裕和監督との対談とあとがきの一部を「文庫化にあたって」という文章に編み直していて、実はそこに私の思いが凝縮している。
ハードカバーの読者さんにも届くといいなと思い、ごく部分的になるが掲載したい。
できれば、この機会に、「誰も知らない」(是枝裕和監督)、拙著「無戸籍の日本人」(集英社)「日本の無戸籍者」(岩波新書)を再鑑賞・再読していただければと思う。
ノンフィクションという形態をとった本書「無戸籍の日本人」は、映画「誰も知らない」のモチーフとなった「巣鴨子ども置き去り事件」の子どもたちと母親への思いで始まり、終わっている。
たぶん、届かない。それはわかっている。それでも書かずにいられない。「私たちも同じ思いでここにいる」、ただそれだけを伝えたい、そんな気持ちだった。
文庫化にあたって、解説を誰にお願いしたらよいかを相談したときに、即座に是枝裕和監督の名前を上げさせていただいた。
「文字」にする、「映像」にする。その手法は違っても、この問題を通して「伝わるように伝えたい」内容は共通するのではないかという思いからだった。
映画の撮影の予定をずらして、対談に応じて下さった是枝監督は「責任」という言葉を使った。撮った映画、出演した俳優たち、スタッフ、映画を撮り終えても、生み出した側は全てに責任があるのだ、と。
映画「誰も知らない」では自由奔放な、「はすっぱ」とも思える役を、俳優YOU氏が見事に演じ切っている。しかし、私が調べた資料の中でのこの事件の母親像はむしろ地味で真面目で、こうした大それた事件に発展するようなことを起こすような女性ではなかった。そして、私の支援してきた母親たちも、むしろ後者に重なる部分が多かった。
なぜ、母親像を実際とは少しずらして描いたのか、というところが実は最も聞きたいところだった。
そこが、私も本書を書きながら一番難しいと思ったところだ。ごく一般的な、真面目な母親たちの姿を書くことは、一歩間違えると、等身大の彼女たちよりも肥大した悪者のレッテルを一方的に押し付けてしまうことにもなる。世の中の「鬼母」のイメージと乖離をさせることは、逆に同情や共感を呼ばないのだ。むしろ攻撃の対象となってしまう危険性さえある。
フィクションの強みはそこにある。母、子、気づかない周りの大人たち…誰かを悪者にしないことで、逆に真実は際立っていくのだ。
そして、監督がもうひとつ付け加えたのは、家族が「楽しい時間を共有していたということを表現したかった」ということだった。
あの悲惨な子どもたちの人生にも、愛溢れる瞬間があり、笑いがあり、「家族の団らん」があったことを伝えたい。YOU氏が作り出す一種独特の世界は、そのまま現実との境目を越えさせる。子どもたちとのクスッとした、ニヤッとしたやり取りや、肌のふれあいの中で生み出される親子の、兄弟姉妹が作り出す「家族」のリアル。
過酷な暮らしの中で、早く大人になることを要求され、当然あるはずの誰かに守られた子ども時代を過ごすことができない子どもたちは、何を支えに今まで生きてこられたのだろうか。私が彼らの中に見たのも、ほんの一瞬かもしれないが「確かに存在した」母親や兄弟との「楽しい時間」なのだ。過酷な時間がどれほど多くとも、彼らはその身体の中に刻まれた体験を反芻して生きていくのだ。
「誰も知らない」を観かえして「無戸籍の日本人」で書き留めた言葉と、全く同じ台詞が何カ所かあって驚かされた。時系列的に言えば、当然ながら「誰も知らない」の方が先だ。もちろん、私の相談者たちが映画を見て言葉を発したわけではないのに、重なる。そこにあるのは「切実」なのだ。
そうしたことを、この対談の中で読み取っていただければ幸いである。
「誰も知らない」。英題は「Nobody Knows」だ。
「英語の時間、語尾にSにつけるか、つけないかで、さんざん解いた例題ですよね」と是枝監督に言ったら、苦笑いされた。
周りにも気づかれず、認められず、自分すら誰だかわからない。まさに「Nobody knows」。
でも、本当は、「今、ここに、確かに存在する彼ら」を、生んだ母、母と情を交わした父、近所のコンビニのレジのおじさん・・・「誰か」は知っているのだ、必ず。
私は「Nobody knows」の後に薄い、消えそうな文字を読む。
ふとしたきっかけで、今まで見えなかった透明な糸に光があたって、銀色に輝く一本の線が現れる時がある。
心もとなく、まるで幻だったかのように消えて見えなくなってしまうのは、この透明な存在は自らだけでは発光することができないからだ。
「偶然」とか「神さま」とかそんな大げさなものでなくとも、透明な糸に光を注ぐのは、彼らを「知っている」もしくは、「『知っている』ことも『知らない』」Somobodyなのである。
意識的にせよ、そうでなくても、Somobody、「誰か」という存在の加減こそが、細い、切れそうな糸を際立たせ、新たなつながりをもたらし、また誰かへとつながげていくのだ。
Nobody knows but Somebody knows.
この本を手にした読者の皆さんこそもSomebodyだと、私は確信している。
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