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2019年4月17日 (水)

選挙における街頭演説の意味

選挙戦も中盤戦。
蒲田の事務所にいると、朝の街頭演説から選挙カーの行き来まで、さまざまな声が聞こえてくる。その声の先に思いを巡らしつつ、まるで読経のように唱和してしまうのは職業病であろう(笑)

さて、朝6時半から駅に立っていると「がんばっていますね」とか「偉いね」と言われることが往々にしてある。
いや、がんばってはいないっすよ。マジで。
好きでやっているわけではない、という意味では、ある種の苦行かもだが、それは「がんばっている」とは質が違うものだと思う。

ワタクシは政治家にとっての街頭演説の意味は、「自分よりずっとがんばっている人がいる」ことの確認だと思っている。

学生、通勤者、夜勤明けで帰ってくる人々ーー。
駅前には、候補者よりずっとがんばっている人々で溢れている。
例えば我が家で言えば、午前5時20分には家を出て朝練に行く子どもの方が、親よりよっぽどがんばっている(笑)
日曜以外、毎日、その生活だぜ。
街頭演説は出来ても、私には無理だわ。

選挙前だけ好きなことだけくっちゃべって、上から目線で「市民の代表」などとちゃんちゃら可笑しい。
でも、時に政治家の、選挙前限定=ピンポイントの「がんばる」はどこかで「自分が一番がんばっている」的な倒錯をもたらしたりする。時には「なんで私がこんなことを」と被害者意識すら持つことも。

そのうち書こうと思っている「上野千鶴子氏の東大入学式祝辞への反応に対する違和感」ともつながるのだが、
社会のルールを決める側にいる人々たちこそが、実はその彼らの思う「理不尽」ゆえに、よりがんばっている人々に対して「理不尽」なルールを構築し、或はそれを維持する側になる可能性があるということを忘れてならないのである。

人は往々にして「がんばる自分」しか見えていないものだ。
自分の「がんばっている」が最大限認められるルール、理不尽が排除されるルールを作る時には、他人の「がんばっている」を知り、認めなければならない。
時に「がんばる」の内容の種目が違ったり、質が違えば、エリートたちが「理不尽だ」と思うことは、実は妥当なものだったりするということがあるということも、自覚しなければならないのだ。

ってことで、選挙モードに戻ろうっと。

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